美しき世界

2005年3月23日
ESが溜まっているのに、歌の大辞典スペシャルを見まくる。
現実逃避ではない。歌が好きなのだ。(ちょっと嘘。)

虎舞竜の「ロード」が流行ったのは、平成5年らしい。
小学校5年生の時だ。歌自体が流れたのはちょびっとだったけど、色々な事を思い出した。当時の私は申し訳ないけれどとても発育(特に首より上の)が遅かったので、この歌を聴いたときも、
「なんでもないようなことなのに、しあわせだったのかぁ。へんなのー。」
などと、本気で疑問だった。

なんでもないような事が幸せだったと思う。なんでもない夜のこと。二度とは戻れない夜。

22歳になった私は今日この歌を聴いて、締め付けられるような気持ちになった。歌詞自体も切ないんだけど、なんとも言えない震えが音源の向こうにあるように感じられた。それは言葉では表現できない。(表現力が不足気味で、嫌になる。)
なぜこんなに切ないんだろう。

最初に言っておくが、私は恋人と死別した経験はない。どなたも(おそらく)健在だ。だから虎舞竜さんに共感しているという事は決してない。恋人を失った人の気持ちは、本人にしか絶対にわからないはず。それでも私に届いた何かがあるのだ。何も失った事が無い私にもわかるような何かがあるのだ。

私は現在彼氏と穏やかに普通過ぎる付き合いを続けている。何も起こらなさ過ぎて腐りそうな関係だが、お互い不満は無いので、多分しばらくこのままだと思われる。
大塚愛の「さくらんぼ」を聴けば当然自分たちに重ねたくなるし、aikoの「カブトムシ」的気持ちも多分に理解できる。普通に奴を好きだと思うし、別れろと言われればいやだと答えるだろう。今は。

もしこの先何かしら問題が発生して、奴と別れたと仮定する。
会えなくなって、それでも記憶と遺品だけは残り、一人ぼっちになる。うーむ、その時感じるであろう愛しさは、今現在のそれとは比べものにならない気がする。

愛は、決して現在形になり得ない。
それは、いつでも過去形だ。

少なくとも、現在形の愛は決して過去形の愛に勝てない。現在形が肥大すればする程、後で変換される過去形のそれはもっと大きくなる。
なぜなら人は、忘れるから。つまり近くにいる時は見えたデコボコが、遠くから見るとまん丸に見えてしまうからである。忘れることによって削り落とされた不完全な愛はいつか、より完全なものに加工されてしまう。

「ロード」が美しいのは、加工された球体を見ているような気持ちになるからだ。虎舞竜さんは大変な経過を辿ったわけだからともかく、私たちも同じように「ロード」を美しいと思うのは、惰性である。
現在形の中にある美しさを見つけるには、大変な訓練が必要だ。老人はデコボコの石を見てため息をつけるらしいが、私にはただの石にしか見えない。石の凹凸を自ら削ぎ落として球体にする技術は、きっと何かを失う経験を多く積まなくては得られないのだ。

年をとったら、世界がもっと美しくみえるのかもしれない。
それは楽しみな事のようだけれど、とても辛い事なのかもしれない。

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