醜い幸福を貪る大人
2005年5月15日子どもは、大人より頻繁に「もう一つくれ。」という言葉を口にするという。やはり父と母と両方を見て育つからなのだろうか。(原田宗典談)
確かに、幸福というのは複数あると嬉しい。週休二日休みがあっても、日曜日より土曜日の方が嬉しい。今日も休みだけど、明日も休みという"もう一つある幸福"のせいだそうだ。
最近色々あって詩集を開く回数が多いのだが、ある友達から借りた銀色夏生(今更ですね)の『恋が彼等を連れ去った』の中に、こんな詩がある。
僕たちの望みは叶ったんだ
でも叶った時に
次の望みが生まれていたから
まるで叶わなかったように感じているけど
最初のあの僕たちの望みは叶ってはいたんだ
静かに考えてみると文句は言えない(銀色夏生)
そう。人間はどんどんいいものを求めてしまう贅沢な存在なんだと思う。世の中をそっくりシンプルにしてしまったら、きっと大半はいらない物ばかりだ。人間がもっといいものを求める精神を失ってしまったら、進歩も無く文化は枯渇する。
かと言って、その精神自体は推奨されるべきものなのだろうか。問題はそこである。
人生の中で出会う異性の数は限られている。一生で500人の異性に出会うとして、その中で実際に付き合う異性の数はそれより遙かに少なくなる。仮に80年生きる中で500人に出会ったとして、その中の3人と関係を持ったとする。しかしそれは80年生きた後に振り返ってみて、500の中から3を選んだといえるだけで、実際に選んだ時には500もの選択肢があったわけではない。
つまり実際に誰かと付き合おうかどうしようか悩む時に、莫大な選択肢の中から"選んで"いるわけでは決して無い。単純にその人が自分にとってアリかナシか、ただ二つの選択肢があるだけだ。
就職活動が大変なのは、おそらく生まれて初めて莫大な数の中から一社を選ぶ体験をするからだ。それくらい私たちは"選ぶ"という体験をしていない。大学受験の苦悩なんて屁より下らない。就職か、結婚か、進学か、フリーターか、何もしないか。たかだか18かそこらの若者には、せいぜい掻き集めてもこれくらいしか選択肢が無かったからだ。本当に生きるということは、莫大な数の中から何かを選び、同時に多くの別の可能性を捨てる覚悟をする事だ。
そう。"選ぶ"とは、"捨てる"事だ。
そして、選ぶ時にネックとなるのは、前述の「もっといいものを求める精神」だ。Aを選ぶと決めたいけど、Bの方がもっといいものかもしれない。そう考えると決心がつかないのだ。魅力的なBの可能性を捨てる事ができなければ、決してAを選ぶ事ができない。
これは、多くの選択肢が同時に訪れたときの話であるが。つまりこと異性関係に関しては、たくさんの異性を比較検討した上で"選ぶ"事ができない。つまり問題はもっと複雑で、一生のうちに3人と付き合う事が初めからわかっていれば、AかBかCかを頭こねくり回しながら考えることもできるだろうが、そうではないのである。常に選択肢は一つずつやってきて、一度選択を終えてしまえば、その後選択し直す事はできない(できる時もあるが、かなり難しい)。
だから浮気はやはり×なのかもしれない。
AかBかを選ぶ事ができずに(つまりどちらかを捨てる覚悟ができずに)、選択保留のまま放置しておくからだ。とても卑怯だし、ずるい事だと思う。覚悟のできない意気地なしのする事なのだと思う。
でも人にとって、人生はその人だけのもので、たとえ狡猾と言われても本人が何も罪悪感を感じずに幸せでいられるのならば、その人にとってその人生はアリなのではないか。
もちろん浮気をする事によって、他人を傷つけるのであればそれははた迷惑な事だから、きっと駄目だ。じゃあ自分にも恋人がいて、相手にも恋人がいて、お互いに割り切って第二の交際を進めていく浮気だったら?そしてお互いにそれをお互いの恋人に知られないように(傷つけないように)やっていくのであれば、誰も傷付かない。じゃあこれってアリなの?
アリのわけねーだろ!!
"もう一つある幸福"は、理性の伴っていない子どもにこそ許され、容認されるべきものだ。子どもにしか許されないものを楽しんでいる大人のかっこ悪さは、皆知っている。
家族に一つずつ配られたハンバーグなのに、「もう一個食べたい」と言って、半分母親の分を分けてもらう我が儘が醜いように。本当はおなかが減っている母親の気持ちを、子どもは知らない。でも大人は知っているではないか。
確かに、幸福というのは複数あると嬉しい。週休二日休みがあっても、日曜日より土曜日の方が嬉しい。今日も休みだけど、明日も休みという"もう一つある幸福"のせいだそうだ。
最近色々あって詩集を開く回数が多いのだが、ある友達から借りた銀色夏生(今更ですね)の『恋が彼等を連れ去った』の中に、こんな詩がある。
僕たちの望みは叶ったんだ
でも叶った時に
次の望みが生まれていたから
まるで叶わなかったように感じているけど
最初のあの僕たちの望みは叶ってはいたんだ
静かに考えてみると文句は言えない(銀色夏生)
そう。人間はどんどんいいものを求めてしまう贅沢な存在なんだと思う。世の中をそっくりシンプルにしてしまったら、きっと大半はいらない物ばかりだ。人間がもっといいものを求める精神を失ってしまったら、進歩も無く文化は枯渇する。
かと言って、その精神自体は推奨されるべきものなのだろうか。問題はそこである。
人生の中で出会う異性の数は限られている。一生で500人の異性に出会うとして、その中で実際に付き合う異性の数はそれより遙かに少なくなる。仮に80年生きる中で500人に出会ったとして、その中の3人と関係を持ったとする。しかしそれは80年生きた後に振り返ってみて、500の中から3を選んだといえるだけで、実際に選んだ時には500もの選択肢があったわけではない。
つまり実際に誰かと付き合おうかどうしようか悩む時に、莫大な選択肢の中から"選んで"いるわけでは決して無い。単純にその人が自分にとってアリかナシか、ただ二つの選択肢があるだけだ。
就職活動が大変なのは、おそらく生まれて初めて莫大な数の中から一社を選ぶ体験をするからだ。それくらい私たちは"選ぶ"という体験をしていない。大学受験の苦悩なんて屁より下らない。就職か、結婚か、進学か、フリーターか、何もしないか。たかだか18かそこらの若者には、せいぜい掻き集めてもこれくらいしか選択肢が無かったからだ。本当に生きるということは、莫大な数の中から何かを選び、同時に多くの別の可能性を捨てる覚悟をする事だ。
そう。"選ぶ"とは、"捨てる"事だ。
そして、選ぶ時にネックとなるのは、前述の「もっといいものを求める精神」だ。Aを選ぶと決めたいけど、Bの方がもっといいものかもしれない。そう考えると決心がつかないのだ。魅力的なBの可能性を捨てる事ができなければ、決してAを選ぶ事ができない。
これは、多くの選択肢が同時に訪れたときの話であるが。つまりこと異性関係に関しては、たくさんの異性を比較検討した上で"選ぶ"事ができない。つまり問題はもっと複雑で、一生のうちに3人と付き合う事が初めからわかっていれば、AかBかCかを頭こねくり回しながら考えることもできるだろうが、そうではないのである。常に選択肢は一つずつやってきて、一度選択を終えてしまえば、その後選択し直す事はできない(できる時もあるが、かなり難しい)。
だから浮気はやはり×なのかもしれない。
AかBかを選ぶ事ができずに(つまりどちらかを捨てる覚悟ができずに)、選択保留のまま放置しておくからだ。とても卑怯だし、ずるい事だと思う。覚悟のできない意気地なしのする事なのだと思う。
でも人にとって、人生はその人だけのもので、たとえ狡猾と言われても本人が何も罪悪感を感じずに幸せでいられるのならば、その人にとってその人生はアリなのではないか。
もちろん浮気をする事によって、他人を傷つけるのであればそれははた迷惑な事だから、きっと駄目だ。じゃあ自分にも恋人がいて、相手にも恋人がいて、お互いに割り切って第二の交際を進めていく浮気だったら?そしてお互いにそれをお互いの恋人に知られないように(傷つけないように)やっていくのであれば、誰も傷付かない。じゃあこれってアリなの?
アリのわけねーだろ!!
"もう一つある幸福"は、理性の伴っていない子どもにこそ許され、容認されるべきものだ。子どもにしか許されないものを楽しんでいる大人のかっこ悪さは、皆知っている。
家族に一つずつ配られたハンバーグなのに、「もう一個食べたい」と言って、半分母親の分を分けてもらう我が儘が醜いように。本当はおなかが減っている母親の気持ちを、子どもは知らない。でも大人は知っているではないか。
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