拝啓 チェーホフさま
2005年5月19日昔、エッセイストになりたいと思ったことがあった。
丁度さくらももこのエッセイ第一段が出たのが、小学校高学年位の時だったので。小説、漫画、詩集以外に「エッセイ」というジャンルがあることに気付いた私は、以後あらゆるエッセイを読み漁った。
読書好きが高じると、そのうち自分でも書いてみたくなるというもので。かといって私が書き始めたのは、エッセイではなかった。8000字〜10000字程度の短編小説ばかりで、わざわざ大学でも小説を書く授業をとったりしていた。
しかしね、本当に小説を書いている人って…あのう、なんかとにかく、「すんげぇ」んですよ。
大学三年の時に履修していた小説の授業は、たしか30人くらいの小さなクラスで(もっといたんだろうけど、実際に作品を持ってくる人はそれくらいだった。)、定期的に発表会を行い、その度に批評をし合うというものだった。でね、まあ、最後まで読むのに相当苦痛を伴う作品というのも無くは無いんですが、「うわ絶対この人プロになろうとしてる」ってわかるようなクオリティの人も少しだけどいたんですね。
はっきり言ってやばいね。あーゆー人たちは、多分読書量からして常人とは違う。負けじと対抗していた私は、当時ものすごい量の小説を書いていた。
でもなんか違うなぁ、と。そのうち、私の書きたいのは小説ではないと気付いたわけだ。(負け惜しみじゃないよ。)
小説はテーマがぼやけ過ぎるのだ。小説は必ず主題を持たなくてはいけない(要はそれを書くことによって何を伝えたいのかってこと)から、一応書く前に色々考えるんだけど、私の考えることって二十歳そこそこの小娘の生活にすごく乗っ取った内容で、いわゆる文学的テーマに置き換えるとものすごく陳腐になるのだ。
しかも私はなるべく思ったことをダイレクトに伝えたいのに(つまりセックスが気持ちいいなら、「セックスは気持ちいい」って書きたいの!)、小説ではあまりダイレクトに書くべきではないようだ。美しい文字の羅列の中から溢れる想像の世界に、ぼんやり主題が見えるっていう程度がベストみたいで。
そりゃ小説のスタイルにも色々あるから、一概にそうとは言い切れないけど。たしかチェーホフだったと思うんだけど…(自信いまいち無し)、彼は「雨が降ったら"雨が降った"と書きなさい。」と語ったという。ですよね、チェーホフ!!私もそう思うよ!!ただ私が主人公の心情を書くと、その主人公が考えていることのはずなのに、「これあなたがいつも考えてることでしょう」ってばれてしまう。つまりものすごく著者(私)の存在感を感じてしまうそうなのだ。
そして私は見栄っぱりなので、いざ小説を書こうとすると、異様に肩に力が入ってしまう。ものすごく深淵なテーマを設定してしまって(てか小説ってそういうもんだと誤認していた)破滅するのである。
私が書きたいのは、ほんの些細な日常の中の一コマなのだ。そしてそういった些細な日常、つまり誰もが普通に通り過ぎてしまうような風景の一部分に、私なりの切り口でメスを入れたい。でもその切り口は、開いてみたら「ああ、なるほどねぇ」と誰もが納得してくれるような事であって欲しい。
しかも本当は皆思ってるのにあまり声を大にして言えないような事(特に女が)、「あちゃーそれ言っちゃうんですか」って事ならなおいい。私が言わなかったら誰が言うのさって位であって欲しい。そして私と同じような日々を送っている多感な世代の「ちょっと考える人」に、読んで欲しい。
だからBROGを書いているのかもしれないなぁ。これって割とエッセイに近いものがあるような。(最近はテーマが抽象的過ぎて、日記で無くなりつつあるという説もアリ。)
今日はバイト先でカプチーノの泡を作りながら、そんな事ばかり考えていた。
ミルクの泡がチリチリと出来上がっていく過程というのも、なかなかに文学的だ。少し作り過ぎたか、もう少し泡立てるべきか。生きるべきか。死ぬべきか。愛するべきか。終わらせるべきか。飛び込むべきか。引くべきか。
丁度さくらももこのエッセイ第一段が出たのが、小学校高学年位の時だったので。小説、漫画、詩集以外に「エッセイ」というジャンルがあることに気付いた私は、以後あらゆるエッセイを読み漁った。
読書好きが高じると、そのうち自分でも書いてみたくなるというもので。かといって私が書き始めたのは、エッセイではなかった。8000字〜10000字程度の短編小説ばかりで、わざわざ大学でも小説を書く授業をとったりしていた。
しかしね、本当に小説を書いている人って…あのう、なんかとにかく、「すんげぇ」んですよ。
大学三年の時に履修していた小説の授業は、たしか30人くらいの小さなクラスで(もっといたんだろうけど、実際に作品を持ってくる人はそれくらいだった。)、定期的に発表会を行い、その度に批評をし合うというものだった。でね、まあ、最後まで読むのに相当苦痛を伴う作品というのも無くは無いんですが、「うわ絶対この人プロになろうとしてる」ってわかるようなクオリティの人も少しだけどいたんですね。
はっきり言ってやばいね。あーゆー人たちは、多分読書量からして常人とは違う。負けじと対抗していた私は、当時ものすごい量の小説を書いていた。
でもなんか違うなぁ、と。そのうち、私の書きたいのは小説ではないと気付いたわけだ。(負け惜しみじゃないよ。)
小説はテーマがぼやけ過ぎるのだ。小説は必ず主題を持たなくてはいけない(要はそれを書くことによって何を伝えたいのかってこと)から、一応書く前に色々考えるんだけど、私の考えることって二十歳そこそこの小娘の生活にすごく乗っ取った内容で、いわゆる文学的テーマに置き換えるとものすごく陳腐になるのだ。
しかも私はなるべく思ったことをダイレクトに伝えたいのに(つまりセックスが気持ちいいなら、「セックスは気持ちいい」って書きたいの!)、小説ではあまりダイレクトに書くべきではないようだ。美しい文字の羅列の中から溢れる想像の世界に、ぼんやり主題が見えるっていう程度がベストみたいで。
そりゃ小説のスタイルにも色々あるから、一概にそうとは言い切れないけど。たしかチェーホフだったと思うんだけど…(自信いまいち無し)、彼は「雨が降ったら"雨が降った"と書きなさい。」と語ったという。ですよね、チェーホフ!!私もそう思うよ!!ただ私が主人公の心情を書くと、その主人公が考えていることのはずなのに、「これあなたがいつも考えてることでしょう」ってばれてしまう。つまりものすごく著者(私)の存在感を感じてしまうそうなのだ。
そして私は見栄っぱりなので、いざ小説を書こうとすると、異様に肩に力が入ってしまう。ものすごく深淵なテーマを設定してしまって(てか小説ってそういうもんだと誤認していた)破滅するのである。
私が書きたいのは、ほんの些細な日常の中の一コマなのだ。そしてそういった些細な日常、つまり誰もが普通に通り過ぎてしまうような風景の一部分に、私なりの切り口でメスを入れたい。でもその切り口は、開いてみたら「ああ、なるほどねぇ」と誰もが納得してくれるような事であって欲しい。
しかも本当は皆思ってるのにあまり声を大にして言えないような事(特に女が)、「あちゃーそれ言っちゃうんですか」って事ならなおいい。私が言わなかったら誰が言うのさって位であって欲しい。そして私と同じような日々を送っている多感な世代の「ちょっと考える人」に、読んで欲しい。
だからBROGを書いているのかもしれないなぁ。これって割とエッセイに近いものがあるような。(最近はテーマが抽象的過ぎて、日記で無くなりつつあるという説もアリ。)
今日はバイト先でカプチーノの泡を作りながら、そんな事ばかり考えていた。
ミルクの泡がチリチリと出来上がっていく過程というのも、なかなかに文学的だ。少し作り過ぎたか、もう少し泡立てるべきか。生きるべきか。死ぬべきか。愛するべきか。終わらせるべきか。飛び込むべきか。引くべきか。
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