不必要なプライド

2005年5月21日
ついこの前、山田詠美が好きだと書いたばかりでアレだが、私は村上春樹も好きだ。

すみません、メジャー好きで。まあ考え直せば、日本人の大半が好きなものが好きだということは、私が日々何かを見たり聞いたりして考えてここに書くようなことも、大半の日本人には受け入れやすいことなのではないかと。違うかな。

というわけで、今日は午前中ダラダラと惰眠を貪った後、村上春樹の『スプートニクの恋人』を満喫。『ノルウェイの森』は図書館で借りたが、これは買った。思うに、小説というものはやはり買うべきだろうと。

一回読んだだけでは良さがわからないと言うと陳腐だが、小説を一度(まあ二回でもいいけど)読み、一旦本棚にしまい、また何年か後に読み直すというのが醍醐味ではないかと。よっぽど下らない本は別として、最初に読んだときそれなりに感銘を受けた本ならば、何年か後に読んだときはきっともっと興味深い。

というわけで、小説は古本屋で買うに限る。本屋にはどうしても新刊が多くなるから(新刊が下らないと言っているのではない)。しかも高い。

しかし上記の事を考えると、どうして古本屋にこそ、すり切れたような名著があるのだろうという気もしてくる。名著(それこそ偉大な文豪のもの)こそ、一度買ったらいつまでも本棚に置いておくべきではないのか。それとも名著を古本屋に売るような人は、単に読書の"量"にのみ重点を置いているのか。つまり一度読んだらもういいと。それは少し寂しい。まあ単に本棚のスペースが無くなった、という可能性もあるだろうが。

私がこの『スプートニクの恋人』を買ったのはわりと最近で、(というかこの本が発売されたのもわりと最近なんだけど)たしか二年位前だ。友の評判はイマイチだったけど、それなりに楽しんで読んだ気がする。

しかし今日読み返してみて(もちろん全部じゃない)、私なりに二年前の私について、絶望とも呼べるほどの感情を抱いてしまった。一体当時の私は、この本のどこを読んで面白いと思っていたのか。今読み返すからこそわかることばかりじゃないか。当時の自分はそれなりにわかりきったような顔をして、人生を見ていた。まあ今もそれなりにわかりきったような顔で、この文章を書いているのだけれど。

たとえば、主人公の"ぼく"に関して。この物語はすみれという女性の話が核になるのだが、"ぼく"についても若干の記述があり、それが今の私にとってはなかなか興味深い。

たとえば、"ぼく"は小学校の教師なのだが、受け持ちのクラスの少年の母親と、月に二回ほど関係を持つということをしている。(これは物語の深部に関わるようなことではないから、ネタバレを恐れる人も心配しなくていい)

当時はただ読み飛ばしていた。だってこれは物語自体にあまり影響を与えていない部分だから。小説というものに無駄なセンテンスなどひとつも無いということはわかるつもりでいるけど、それでもこの部分は結構無駄に近いものであるかもしれない。

まあ能書きはいい。とにかく私は、"ぼく"の行動にこの上もなく興味を覚えていた。

一体いつこんなことを決めたのか謎だけど、私は付き合うときに、常に結婚を前提にしている。つまり私が誰かと付き合うということは、その相手と将来結婚するかもしれない可能性を、その時点では容認しているということ。

だから「この人とは世界が崩壊しそうになっても結婚できないだろう」と思えば、絶対に付き合わない。それはその人自身の考え方や価値観や容姿云々に限らず、肩書きや身分の問題でもある。つまり妻子持ちや、あまりにも年上・年下の場合なんかは、最初から選択肢に入らないということだ。

無駄を避けてると言えば、そう言えるかもしれない。そう、私は無駄な恋愛を避けている。

恋愛は常にフィフティ・フィフティであるべきで、ともに若く未婚の男女が、将来一緒になるためにするものだと位置づけていたのだと思う。そうでない恋愛がこの世にあることは知っていたけど、それは私にとって意味の無いもので、そういう二人をやはりあまり理解できていなかったのだなと。

だから今回で言えば、この"ぼく"の行動は、私にとってはまずあり得ない世界の話だ。未来が無いではないか。"ぼく"は未婚だけど、その相手とどうこうしたいという(つまり旦那と離婚させても手に入れたい)欲求は無い。じゃあなぜ?なんのために会っているの?ともに好意を抱いて行為を重ね(ちょっとシャレ言ってみました)、それが一体何の材料になるというのだ。

とにかく今回私がわかったことは、世の中には数多くの"無駄"が存在しているのに、私は極端にその"無駄"を排除しようとしていたんだなぁと。"無駄"を"無駄"と認めることは以前もあったけれど、それらと自分を仕切る壁だけは、人より頑丈だったようだ。

そう思っていたら、冒頭でとっくに"ぼく"が語っていたよ。


でもあえて凡庸な一般論を言わせてもらえるなら、我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。
(村上春樹『スプートニクの恋人』より)


さて、それが字面から表面的に理解したことじゃなかったと仮定して、これから私がどううまく生きてくかが問題だな、と。

"無駄"を"無駄"と割り切ってやっていく選択肢を選ぶほどには、私は大人じゃない気がする。

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索