程度の問題
2005年5月28日今(あくまでも厳密な意味で「今」である)私が一番関心を寄せている人物は、就職活動をしている。
その人は既に内定を一つ貰っていて、そこはかなり行きたい企業であるらしい。「え、じゃあ就活終わりじゃないの」って感じなのだが、ちっとも行きたくない大手食品メーカーとかを受けまくっている。意味不明である。
今日、理由が判明した。親が受けてほしいと言っているのだそうだ。内定が出た企業はそれなりに(というかかなり)有名企業ではあるが、まあヤクザな業界といえばそんな感じもするので、一般的な親世代に受けがよくないのであろう。
まあ色々大変だなぁとは思うが、蚊帳の外の人間から言わせてもらえば、「親の人生じゃないじゃん、自分の意志を持てよ」という感じか。おそらく多くの人がそう思うであろう。
そういえば高校を卒業した春に、仲の良い友達四人で伊豆に旅行する計画を立てたことがあった。その時本当に直前になって、一人がドタキャンするという騒ぎになった。理由は「子どもだけで伊豆に行くなんて」と親が反対したとのこと。当時ものすごく納得がいかなかったことを、今思い出した。
なんてことを書いているけれど、うちの両親も世間的に見れば、かなり小うるさい親であることは確実だ。まず私は一人娘なので、深夜の外出は父が許さない。オールなんてほぼありえないし、子ども(あのー、一応私今年23になるんですけどね)だけで外国に行くなんて言ったら、多分卒倒するだろう。というわけで留学なんて絶対に無理。
最近は諦めつつあるが、このように、人にはそれぞれ足枷のようなものがあるのだなぁと。
たとえば私が留学などできない一方、女の子なのにバックパックを背負って一人海外へ旅立っちゃう人もいる。私が終電を逃して誰かの家に泊めてもらう事が二年に一回位の頻度なのに対して、毎日夜遅くまで遊び歩くのが日常になっている人もいる。
親が受けろ受けろとうるさいから仕方なく就活を続けている彼は、地方から出てきて一人暮らしをしている。だから彼は自由気ままに日々を送っているのだろうと思い込んでいたし、大学の単位を取り終わり就職まで間がある彼ほど、自由で解放された人生を送っている人はいないだろうとも思っていた。
そんな彼にも色々あるのだなぁ、と。
そして思った。人はきっと誰にでも、足枷のようなものがある。
足枷は多くの場合その人(というかその家族)にしかわからないものであり、全くの他人がそれを理解することはできないのではないかと。頭では理解できても、理解しようと務めるときに使う尺度は、その人が生まれ育った環境のスタンダードでしかないから。火星で生まれた人が地球の人を理解しようとしてもね。
そして人は誰でも「この足枷が無かったら」と思わずにいられない。
程度の違いだとは思うが、私から見れば、チアの練習が九時に終わった後に皆で食事をする人たちが、どんなに羨ましかったことか。そりゃ夜遅くまで遊べる彼女らにも(しつこく言うが程度の違いこそあれ)何らかの足枷があったに違いない。しかし自分の足枷はあくまで自分だけのもので自分にしかわからないから、それが無いことだけを切に願ってしまう。
でもきっと私よりも不自由な生活をしている人なんて本当に相当な数存在していて、その人たちより少しだけ私は自由だけど、そんな私よりも少しだけ自由なのが、練習後にごはんを食べていた彼女たちなんだろう。つまりそういうことだ。全ては程度の問題だ。
100あるうちの90恵まれていたら、それだけで50しか恵まれていない人より幸せなはずなのに、持っている90ではなく、足りない10を見てしまうのが人間なのだろう。そしてきっと100持っている人間など存在するはずがなくて、足りない部分を指して私は「足枷」と呼んでいる。
私は今それなりに不自由を感じているけれど、きっと足枷は年齢によって変化していく。そして確実に予想できるのは、今後その足枷は一旦減少することはあっても、その後また増え続け、今よりもっと重荷になるのだろうなということ。
つまりどういうことかというと、私は来年社会人になることで、一般的な意味での親の保護から外れるから、現在抱えている足枷はおそらく無くなる。けれど結婚し、子どもが生まれ、諸々の責任を今度は自分が持つことになる(夫に対しても子どもに対しても)。そうしたら、今ほど身勝手な行動はきっとできない。どんな時でも、自分の家族のことをまず考えるようになるだろう。
かといって、それが不幸せなことであるはずがない。90恵まれていようが、50恵まれていようが、それが0にならない限り。
足枷を見てはいけない。今自分がいくつ既に持っているのか。いつだってそれが重要なのだ。
その人は既に内定を一つ貰っていて、そこはかなり行きたい企業であるらしい。「え、じゃあ就活終わりじゃないの」って感じなのだが、ちっとも行きたくない大手食品メーカーとかを受けまくっている。意味不明である。
今日、理由が判明した。親が受けてほしいと言っているのだそうだ。内定が出た企業はそれなりに(というかかなり)有名企業ではあるが、まあヤクザな業界といえばそんな感じもするので、一般的な親世代に受けがよくないのであろう。
まあ色々大変だなぁとは思うが、蚊帳の外の人間から言わせてもらえば、「親の人生じゃないじゃん、自分の意志を持てよ」という感じか。おそらく多くの人がそう思うであろう。
そういえば高校を卒業した春に、仲の良い友達四人で伊豆に旅行する計画を立てたことがあった。その時本当に直前になって、一人がドタキャンするという騒ぎになった。理由は「子どもだけで伊豆に行くなんて」と親が反対したとのこと。当時ものすごく納得がいかなかったことを、今思い出した。
なんてことを書いているけれど、うちの両親も世間的に見れば、かなり小うるさい親であることは確実だ。まず私は一人娘なので、深夜の外出は父が許さない。オールなんてほぼありえないし、子ども(あのー、一応私今年23になるんですけどね)だけで外国に行くなんて言ったら、多分卒倒するだろう。というわけで留学なんて絶対に無理。
最近は諦めつつあるが、このように、人にはそれぞれ足枷のようなものがあるのだなぁと。
たとえば私が留学などできない一方、女の子なのにバックパックを背負って一人海外へ旅立っちゃう人もいる。私が終電を逃して誰かの家に泊めてもらう事が二年に一回位の頻度なのに対して、毎日夜遅くまで遊び歩くのが日常になっている人もいる。
親が受けろ受けろとうるさいから仕方なく就活を続けている彼は、地方から出てきて一人暮らしをしている。だから彼は自由気ままに日々を送っているのだろうと思い込んでいたし、大学の単位を取り終わり就職まで間がある彼ほど、自由で解放された人生を送っている人はいないだろうとも思っていた。
そんな彼にも色々あるのだなぁ、と。
そして思った。人はきっと誰にでも、足枷のようなものがある。
足枷は多くの場合その人(というかその家族)にしかわからないものであり、全くの他人がそれを理解することはできないのではないかと。頭では理解できても、理解しようと務めるときに使う尺度は、その人が生まれ育った環境のスタンダードでしかないから。火星で生まれた人が地球の人を理解しようとしてもね。
そして人は誰でも「この足枷が無かったら」と思わずにいられない。
程度の違いだとは思うが、私から見れば、チアの練習が九時に終わった後に皆で食事をする人たちが、どんなに羨ましかったことか。そりゃ夜遅くまで遊べる彼女らにも(しつこく言うが程度の違いこそあれ)何らかの足枷があったに違いない。しかし自分の足枷はあくまで自分だけのもので自分にしかわからないから、それが無いことだけを切に願ってしまう。
でもきっと私よりも不自由な生活をしている人なんて本当に相当な数存在していて、その人たちより少しだけ私は自由だけど、そんな私よりも少しだけ自由なのが、練習後にごはんを食べていた彼女たちなんだろう。つまりそういうことだ。全ては程度の問題だ。
100あるうちの90恵まれていたら、それだけで50しか恵まれていない人より幸せなはずなのに、持っている90ではなく、足りない10を見てしまうのが人間なのだろう。そしてきっと100持っている人間など存在するはずがなくて、足りない部分を指して私は「足枷」と呼んでいる。
私は今それなりに不自由を感じているけれど、きっと足枷は年齢によって変化していく。そして確実に予想できるのは、今後その足枷は一旦減少することはあっても、その後また増え続け、今よりもっと重荷になるのだろうなということ。
つまりどういうことかというと、私は来年社会人になることで、一般的な意味での親の保護から外れるから、現在抱えている足枷はおそらく無くなる。けれど結婚し、子どもが生まれ、諸々の責任を今度は自分が持つことになる(夫に対しても子どもに対しても)。そうしたら、今ほど身勝手な行動はきっとできない。どんな時でも、自分の家族のことをまず考えるようになるだろう。
かといって、それが不幸せなことであるはずがない。90恵まれていようが、50恵まれていようが、それが0にならない限り。
足枷を見てはいけない。今自分がいくつ既に持っているのか。いつだってそれが重要なのだ。
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