研究室に育つ若芽
2005年5月31日今日は動かない足を引きずるような気持ちで大学に行き、渋々ながら授業を受けた。
っていっても、90分間我慢して講義を聞いていたわけではなく、専攻のゼミに出ただけだが。しかもたった6人だけのゼミ。ダルーダルーと音が聞こえてきそうな程、ダルいゼミである。
うちのゼミの教授は、大変理解があるというかなんというか、自分が大学生だった頃の気持ちを未だに引きずっているような人だ(教授自身、うちの大学の卒業生のせいかもしれない)。口癖は「早く休みになんないかねー」。全員が集まるまで私たちが無駄話をしていると、本来教授は始業のベルと共にそれをうち切る立場のはずなのに、にこにこして自分も話に加わったりしている。
以前など自分の奥さんとの馴れ初め話だけで、90分終わってしまったことがあった。その前は「今日は天気がいいからやめ。」と言われたこともある。教務科にバレたら結構やばいんじゃないか…という感じだが、彼自身「僕はいつでも解雇されていいんですよ」なんて普段から言っているから、実際そうなっても案外平気なのかもしれない。
そんな素敵すぎる教授がお送りする毎週90分のゼミに、今日は久し振りに参加した。就活が激化する前に参加したっきりだったので、本当に久し振りだ。しばらく御無沙汰するうちに、ちとメンバーが変化していた。
我がゼミは3・4年生が一緒に研究(?)をする。ゼミを履修しなければいけないのは2・3年生だが、4年生も卒業論文の準備があるので、結局参加しなければいけないのである。というわけで本来は3年生だけで行われるゼミに、私たちがお邪魔するのだ。
いやー、ビックリした。今年の3年生可愛いのよ!!
うちの学科は世間的にはマイナーというか日陰の学科なので、みんななんか暗いんだけど、今日の3年生はなんちゅうかオシャレというか華やかというか、とにかくあまりうちの学科にいない種類の人々であった。ていうか去年のゼミにはいなかった(なんか地味なのよ、うちのゼミ)。
そして久し振りのゼミは、なんだか議論も盛り上がっていた。今日のテーマはアメリカのマニフェスト・ディスティニーについて。要は、アメリカが本土を広げ支配することは神様が祝福しているのだ!という当時の思想が、現代ではどんな風に広がっているのかということについて。
アメリカの商品や文化が世界中に広まることで、世界中の人は理論でアメリカを批判していても、実際使っているのはディズニーのキャラクター商品だったり。もしくはいつも飲んでるコーヒーはスターバックスだったり。これは結構恐ろしいというか、アメリカが100年計画で意図していたことなのではないか、と持論を述べた男の子(3年生)がいた。
今年の3年生は熱いというか、議論中の発言も活気に満ちている。特に印象的だったのは、持論を述べた彼はしきりに「何が正しいか」ということを見つけようとしていて、でもなかなか見つからなくて、終いには「何が正しいんだかわからねぇや…」と肩を落としていた。
そんな彼に対して私(すみっこの席で議論を眺めていた)が思ったことは、「彼は若いなぁ」ということ。
まだこの世には、正しいこと・正しくないことの2種類しか無いように思っているのかもしれないなぁ、と。
世の中には正しいことと正しくないことが確かにあるけれど、それは自由に変化するアメーバのようなものだ。だって正しいか正しくないかを判断しているのは、どんな時だって自分なのだから。どこまでいっても主観的な枠組みから出ることのできないものには、きっと永遠に客観性が見つけられない。
だから世の中のもの全ては、ただ「それがそこにある」というだけで、それに付随する意味(正しいか正しくないか)は自分で決めるしかないのである。そして主観性に満ちたその判断は、結構簡単にひっくり返ったりもする。つまりなかなか判断できなくて立ち止まる時、本人にとってその物事は正しくないし正しくなくもないのである。
私は結構年齢にこだわるところがあるのだが(柔軟性が無いなぁとも思うが)、一浪している私と彼は2つ違いなのだ。「だから何だ」とも思うが、2年間という短く思われる期間も、案外人が大きく変わるに十分な時間なのかもしれない。
弱冠22歳の私でも、年下を見ているとこんなことを考えたりするのだから、いつもこの日記を読んで多くのコメントを下さる年上の方々は、一体どんな気持ちで私を見ているのだろうとも思う。
やっぱり、「まだまだ若いなぁ」と思っているのかもしれないな。
っていっても、90分間我慢して講義を聞いていたわけではなく、専攻のゼミに出ただけだが。しかもたった6人だけのゼミ。ダルーダルーと音が聞こえてきそうな程、ダルいゼミである。
うちのゼミの教授は、大変理解があるというかなんというか、自分が大学生だった頃の気持ちを未だに引きずっているような人だ(教授自身、うちの大学の卒業生のせいかもしれない)。口癖は「早く休みになんないかねー」。全員が集まるまで私たちが無駄話をしていると、本来教授は始業のベルと共にそれをうち切る立場のはずなのに、にこにこして自分も話に加わったりしている。
以前など自分の奥さんとの馴れ初め話だけで、90分終わってしまったことがあった。その前は「今日は天気がいいからやめ。」と言われたこともある。教務科にバレたら結構やばいんじゃないか…という感じだが、彼自身「僕はいつでも解雇されていいんですよ」なんて普段から言っているから、実際そうなっても案外平気なのかもしれない。
そんな素敵すぎる教授がお送りする毎週90分のゼミに、今日は久し振りに参加した。就活が激化する前に参加したっきりだったので、本当に久し振りだ。しばらく御無沙汰するうちに、ちとメンバーが変化していた。
我がゼミは3・4年生が一緒に研究(?)をする。ゼミを履修しなければいけないのは2・3年生だが、4年生も卒業論文の準備があるので、結局参加しなければいけないのである。というわけで本来は3年生だけで行われるゼミに、私たちがお邪魔するのだ。
いやー、ビックリした。今年の3年生可愛いのよ!!
うちの学科は世間的にはマイナーというか日陰の学科なので、みんななんか暗いんだけど、今日の3年生はなんちゅうかオシャレというか華やかというか、とにかくあまりうちの学科にいない種類の人々であった。ていうか去年のゼミにはいなかった(なんか地味なのよ、うちのゼミ)。
そして久し振りのゼミは、なんだか議論も盛り上がっていた。今日のテーマはアメリカのマニフェスト・ディスティニーについて。要は、アメリカが本土を広げ支配することは神様が祝福しているのだ!という当時の思想が、現代ではどんな風に広がっているのかということについて。
アメリカの商品や文化が世界中に広まることで、世界中の人は理論でアメリカを批判していても、実際使っているのはディズニーのキャラクター商品だったり。もしくはいつも飲んでるコーヒーはスターバックスだったり。これは結構恐ろしいというか、アメリカが100年計画で意図していたことなのではないか、と持論を述べた男の子(3年生)がいた。
今年の3年生は熱いというか、議論中の発言も活気に満ちている。特に印象的だったのは、持論を述べた彼はしきりに「何が正しいか」ということを見つけようとしていて、でもなかなか見つからなくて、終いには「何が正しいんだかわからねぇや…」と肩を落としていた。
そんな彼に対して私(すみっこの席で議論を眺めていた)が思ったことは、「彼は若いなぁ」ということ。
まだこの世には、正しいこと・正しくないことの2種類しか無いように思っているのかもしれないなぁ、と。
世の中には正しいことと正しくないことが確かにあるけれど、それは自由に変化するアメーバのようなものだ。だって正しいか正しくないかを判断しているのは、どんな時だって自分なのだから。どこまでいっても主観的な枠組みから出ることのできないものには、きっと永遠に客観性が見つけられない。
だから世の中のもの全ては、ただ「それがそこにある」というだけで、それに付随する意味(正しいか正しくないか)は自分で決めるしかないのである。そして主観性に満ちたその判断は、結構簡単にひっくり返ったりもする。つまりなかなか判断できなくて立ち止まる時、本人にとってその物事は正しくないし正しくなくもないのである。
私は結構年齢にこだわるところがあるのだが(柔軟性が無いなぁとも思うが)、一浪している私と彼は2つ違いなのだ。「だから何だ」とも思うが、2年間という短く思われる期間も、案外人が大きく変わるに十分な時間なのかもしれない。
弱冠22歳の私でも、年下を見ているとこんなことを考えたりするのだから、いつもこの日記を読んで多くのコメントを下さる年上の方々は、一体どんな気持ちで私を見ているのだろうとも思う。
やっぱり、「まだまだ若いなぁ」と思っているのかもしれないな。
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