火を使う人と考える人
2005年6月1日ある機械が目の前にあるとする。
そしてAさんとBさんがいるとする。
この機械にはスイッチが付いていて、それを押すと上面の吹き出し口から火が出るとする。これを人からあてがわれ、「火が必要なときはこれを使いなさい」と言われたとしよう。
Aさんは、「この機械からは火が出るんだ」という仕組みを素直に受け止め、必要なときにスイッチを押した。
Bさんは、「なぜ火が出るんだろう」と疑問に思い、その機械をひたすら観察し、考えた。
このように、ある仕組みを与えられたときに人が取る行動パターンは、概ねこのどちらかであると思う。私を含む多くの現代人は多分Aさんであろう。
生まれたときから、「決められた年齢に達すれば学校に行き、卒業したら働くんだよ」という世の中の仕組みを叩き込まれている。それは誰かに強引に教え込まれたわけではなく、ごくごく自然なこととして(つまり、人は生きるために食事をするのだということと同じくらいに)理解されている。あまりにも多くの人がこの仕組みを素直に享受し、納得している。
それというのも、この社会の仕組みに反旗を翻しているBさんのような人は、子どもの目に触れないところに排除されているから、疑問を抱く余地も無かったのだ。
しかし、その子どもが大きくなってある年齢に達したとき、Bさんのような疑問を抱くか、それとも一生何の疑問も抱かずに死んでいくのかというところでは、大きな違いがあると思う。
私の周りに、「どうして大学に行かなければいけないのか」ということで頭を悩ませている人がいる。その人は現役の大学生だ。
日本に何万人の大学生がいるか知らないけれど、この大いなる仕組みの前で一度立ち止まり、自分なりの答えを出してから大学に通おうと決めた人が、一体どれくらいいるんだろう。
私は何も悩まずに大学3年間を過ごし終え、いざ就職活動を始めようとしたところで、これとは性質が違う(だが根本は同じ)疑問にぶち当たった。つまり「なぜ就職しなければいけないのか」ということだ。未だに完全な答えは出ていない。けれどそれでも来年の春には就職する。火が出る仕組みを素直に受け入れるように。
私がぶち当たった疑問に対しての答えも、一応出せと言われれば出すことができる。「社会(というか国だな)が私に投資してくれた分、自分も何らかの形で還元せねばなるまい」ということだが…
実はコレ、そこそこ納得できる答えだとは思うけど、根本的な疑問に答えていない。序盤の例えで言うなら、「なぜ火が出るか」じゃなくて「なぜスイッチを押すのか」に近いものがある。つまり自分が火を使いたいという前提の上に、ただスイッチを押す答えを用意しただけに過ぎない。だからその機械を分解して分析して「こういうわけで火は出ます」と言ったわけではないのだ。
しかし、この答えを模索する行為というのは、なかなかにしんどい。何しろ仕組みがあまりにも大きくなっているから、どこから分解していいかわからないし、もちろん自分なりの答えが出たからといって答え合わせもできない。
そして何より、いくら火が出る仕組みがわかったところで、結局その機械を使わざるをえないというところに、最たる問題があると思う。どうせ原理を知ったところで使うしかないんだから、知らなくたって知ってたって一緒じゃねーかってやつだ。
そうなのだ。それはわかっている。
じゃあこの大いなる仕組みがもし崩壊したとしたら?
つまりもしこの機械が故障したらどうするのだ、ということだ。
Aさんは、スイッチを適切なときに適切な用途で押すということに関しては長けているけれど、結局原理を知らないからただただ途方に暮れるだけではないだろうか。
しかしBさんは原理を知っているから、自分で故障を直すことができる。もしくは新たに材料を探してきて、自分で違う機械を作ることだってできるだろう。物事を理解しているということは、そういうことだ。使い方を知っているだけでは、真に理解したとは言えない。
現在、日本人の多くが、この大いなる仕組みの前に何の疑問を抱いていないのは、この仕組みが崩壊する危険性が限りなくゼロに近いことを、なんとなくでも知っているからではないだろうか。
====================
今日の文章は、小学生の頃に読んだ星新一のショート・ショート(「高度な文明」/新潮文庫『かぼちゃの馬車』より)に原点が探せるような気がする。興味がある方はどうぞ。
ただほんと、原理を知っていたところで「幸せかどうか」には全く関係なかったりするような気がします。
そしてAさんとBさんがいるとする。
この機械にはスイッチが付いていて、それを押すと上面の吹き出し口から火が出るとする。これを人からあてがわれ、「火が必要なときはこれを使いなさい」と言われたとしよう。
Aさんは、「この機械からは火が出るんだ」という仕組みを素直に受け止め、必要なときにスイッチを押した。
Bさんは、「なぜ火が出るんだろう」と疑問に思い、その機械をひたすら観察し、考えた。
このように、ある仕組みを与えられたときに人が取る行動パターンは、概ねこのどちらかであると思う。私を含む多くの現代人は多分Aさんであろう。
生まれたときから、「決められた年齢に達すれば学校に行き、卒業したら働くんだよ」という世の中の仕組みを叩き込まれている。それは誰かに強引に教え込まれたわけではなく、ごくごく自然なこととして(つまり、人は生きるために食事をするのだということと同じくらいに)理解されている。あまりにも多くの人がこの仕組みを素直に享受し、納得している。
それというのも、この社会の仕組みに反旗を翻しているBさんのような人は、子どもの目に触れないところに排除されているから、疑問を抱く余地も無かったのだ。
しかし、その子どもが大きくなってある年齢に達したとき、Bさんのような疑問を抱くか、それとも一生何の疑問も抱かずに死んでいくのかというところでは、大きな違いがあると思う。
私の周りに、「どうして大学に行かなければいけないのか」ということで頭を悩ませている人がいる。その人は現役の大学生だ。
日本に何万人の大学生がいるか知らないけれど、この大いなる仕組みの前で一度立ち止まり、自分なりの答えを出してから大学に通おうと決めた人が、一体どれくらいいるんだろう。
私は何も悩まずに大学3年間を過ごし終え、いざ就職活動を始めようとしたところで、これとは性質が違う(だが根本は同じ)疑問にぶち当たった。つまり「なぜ就職しなければいけないのか」ということだ。未だに完全な答えは出ていない。けれどそれでも来年の春には就職する。火が出る仕組みを素直に受け入れるように。
私がぶち当たった疑問に対しての答えも、一応出せと言われれば出すことができる。「社会(というか国だな)が私に投資してくれた分、自分も何らかの形で還元せねばなるまい」ということだが…
実はコレ、そこそこ納得できる答えだとは思うけど、根本的な疑問に答えていない。序盤の例えで言うなら、「なぜ火が出るか」じゃなくて「なぜスイッチを押すのか」に近いものがある。つまり自分が火を使いたいという前提の上に、ただスイッチを押す答えを用意しただけに過ぎない。だからその機械を分解して分析して「こういうわけで火は出ます」と言ったわけではないのだ。
しかし、この答えを模索する行為というのは、なかなかにしんどい。何しろ仕組みがあまりにも大きくなっているから、どこから分解していいかわからないし、もちろん自分なりの答えが出たからといって答え合わせもできない。
そして何より、いくら火が出る仕組みがわかったところで、結局その機械を使わざるをえないというところに、最たる問題があると思う。どうせ原理を知ったところで使うしかないんだから、知らなくたって知ってたって一緒じゃねーかってやつだ。
そうなのだ。それはわかっている。
じゃあこの大いなる仕組みがもし崩壊したとしたら?
つまりもしこの機械が故障したらどうするのだ、ということだ。
Aさんは、スイッチを適切なときに適切な用途で押すということに関しては長けているけれど、結局原理を知らないからただただ途方に暮れるだけではないだろうか。
しかしBさんは原理を知っているから、自分で故障を直すことができる。もしくは新たに材料を探してきて、自分で違う機械を作ることだってできるだろう。物事を理解しているということは、そういうことだ。使い方を知っているだけでは、真に理解したとは言えない。
現在、日本人の多くが、この大いなる仕組みの前に何の疑問を抱いていないのは、この仕組みが崩壊する危険性が限りなくゼロに近いことを、なんとなくでも知っているからではないだろうか。
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今日の文章は、小学生の頃に読んだ星新一のショート・ショート(「高度な文明」/新潮文庫『かぼちゃの馬車』より)に原点が探せるような気がする。興味がある方はどうぞ。
ただほんと、原理を知っていたところで「幸せかどうか」には全く関係なかったりするような気がします。
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