脆いがゆえに

2005年6月15日
就職活動を終えて自分がどう変わったかなんて、結局思い込みの要素が大半を占めるだろうし、今更考えたくもないけど、

「理屈っぽくなったね。」

と最近言われる。

昔からたまに言われていたことではあるけど、それにしてもよく言われる。しかも自分でもこの日記を書きながら「そうかもなぁ」なんて思っていただけに、実際本当にそうなのかもしれない(てかこの前置きの時点で既に理屈っぽいや)。

何しろ、自分の考えや経歴をいかにわかりやすくかつ簡潔に示すかということに、全てのエネルギーを費やしていたのだ。私が最も得意としていた戦法は箇条書き。面接の場合は、「三点述べたいと思います」の後に具体例。まあいつもそうしていたわけではないけれど。

昨日、高校の同級生とサシで飲む機会があった。彼は共に浪人を経験した私の数少ない戦友だ。彼も就職が決まり、卒業後は営業として頑張るらしい。しかしいざ職に就いたときに、きちんとした営業マンとして人と話ができるかどうか、若干不安であるとのこと。

それなりに自分のコミュニケーション能力に自負があるからこそ営業を希望したんだろうけど、それはそれとして悩みは尽きないらしい。それを聞き私はもちろん自分の意見を述べたんだけど、結局話があっちこっちにいって(飲みの席ではそうなりがちだけど)自分でも何が言いたいのかよくわからなくなってしまった。

だから最後に「つまりね、私が何を言いたいかというと…」と話をまとめようとしたのだが、彼にこう切り返されてしまった。「いや、いいから。ちゃんとわかるからさ。」と。

うーん…。やっぱり理屈っぽいのかもしれない。

世の中の物事全てに白黒をつけられるはずがないし、それらが全て完全なる秩序に従って構成されているはずもない。シンメトリーの構成を見ると安心するけれども、自然界に完全なる対象性を備えた物など存在していないではないか(人間だって左右対称に見えるけれど、絶対に僅かだがずれているし)。

同じ速度で落下し続けているように見える物体が、実は等加速度の法則に従っているように、現実はいつでも少々歪んでいる。でも学校で習わなかったら私はそのことを知らなかっただろうし、つまりは何もかもが完全なる秩序の上にできているのだと思いこんでいたはずだ。

私もこうして書くと上記のことを理解しているように思えるけれど、人に言わせると、いつでも何かに秩序を見いだそうとしているように見えるそうだ。そして自分なりの秩序の入れ子の中に、世界(もしくは宇宙)の核ともなり得る、純然たる真理があると思いこんでいるのかもしれない。

理論的

とはまたちょっと違うようだ。

私はもしかしたらものすごい不安を抱えていて、それをなんとかして解消するために、拠り所となる確固たる(ように見える)何かを、人より余計に欲しがっているのかもしれない。

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