八方美人なイエス
2005年6月16日「自分の意見を言えよ。」と思わず言いたくなるシーンはよくある。
八方美人と呼ぶのだろうが、いつでも相手に共感している風に装い、人の意見に同調してばかりいる人に対してだ。
いきなり結論から述べるけれど、私は最近それでもいいような気がしてきた。(私がいつでも本音で人と付き合いたいと書いたのは割と記憶に新しいけれど、その矛盾を敢えて認識した上で書きたいと思う。)
私は本音を言いまくっているようでいて、何気に結構人に気を遣っている(つもり)。どういうことかというと、本音と建て前が両方あったら、なるべく本音を言うようにしてはいるけれど、言うべき本音と言わないで済ましておく本音を区別しているということだ。
「そんなの当たり前じゃん。みんなやってるよ。」と言われるかもしれないが。
八方美人という表現が悪い意味で使われているように、自分の意見をはっきり言わないことはあまり良くないことなんだろうと思う。そして誰にでもいい顔をする人も。しかし、そういう人たちを単に「だめな人」と区別してよいのだろうか。
うちの彼氏と私の嗜好は概ね一致しているので、「今晩何を食べるか」というテーマでぶつかることはそこまで多くないのだが、それでもたまーに揉めることがある。つい最近も私は「たまにはイタリアンを食べよう」と思っていたのに、奴が先に「今日はお好み焼きがいい!」と言い出したのだ。
「えー…お好み焼きかぁ…」と一応嫌そうなポーズをとってみたのだが、彼がどうしてもお好み焼きが食べたい食べたいと言いまくるので、結局イタリアンのことは言い出さずに、その日はお好み焼き屋に行くことにした。
いざ焼き上がって、はふはふ言いながら嬉しそうに食べている奴を見ていたら、「ああイタリアンにしなくてよかった。」と私は思った。そして、「本当は何が食べたかったの?」と聞かれても、なんだか最初からお好み焼きが食べたいと思っていたような錯覚すら感じた。
相手が幸せなら自分も幸せなどと書くと、ものすごく偽善の匂いが漂うけれど、本音を隠して誰かに同調することでその場の和が保たれるならば、もっと言うならば喜ぶ誰かの顔が見られるのならば、付和雷同も決して悪いこととは言い切れない。
八方美人と呼ばれる人は、確かに芯がしっかりしていないのかもしれないけれど、単に価値観として人に喜んでもらいたいという思いが強いだけなんだと思う。つまり誰かを押しのけてまで貫きたいという欲求が存在しないだけで、自分の意見を言わないのではないということ。言うほどの意見なり欲求なりが無いのだから。
あまり評判が良くないであろうお調子者というのも確かにいるけれど、真の利他愛とは、八方美人の中にこそその芽が見いだせるのかもしれない。
今の彼氏ともし結婚するならば、少々ぶつかることがあっても、妥協できる範囲で彼が喜ぶことを選択したいと思う。そして彼が快適だと思える状態というのを、なるべく(ほかの人が作れないのなら)私が作り続けていけたらとも思う。
誰かに対するこういった気持ちが最高潮に達したときこそ、結婚すべき時なのかなと思ったりした。
まだ最高潮とは言いきれないし、諸々の現実的な問題もあるので、しないけれど。
八方美人と呼ぶのだろうが、いつでも相手に共感している風に装い、人の意見に同調してばかりいる人に対してだ。
いきなり結論から述べるけれど、私は最近それでもいいような気がしてきた。(私がいつでも本音で人と付き合いたいと書いたのは割と記憶に新しいけれど、その矛盾を敢えて認識した上で書きたいと思う。)
私は本音を言いまくっているようでいて、何気に結構人に気を遣っている(つもり)。どういうことかというと、本音と建て前が両方あったら、なるべく本音を言うようにしてはいるけれど、言うべき本音と言わないで済ましておく本音を区別しているということだ。
「そんなの当たり前じゃん。みんなやってるよ。」と言われるかもしれないが。
八方美人という表現が悪い意味で使われているように、自分の意見をはっきり言わないことはあまり良くないことなんだろうと思う。そして誰にでもいい顔をする人も。しかし、そういう人たちを単に「だめな人」と区別してよいのだろうか。
うちの彼氏と私の嗜好は概ね一致しているので、「今晩何を食べるか」というテーマでぶつかることはそこまで多くないのだが、それでもたまーに揉めることがある。つい最近も私は「たまにはイタリアンを食べよう」と思っていたのに、奴が先に「今日はお好み焼きがいい!」と言い出したのだ。
「えー…お好み焼きかぁ…」と一応嫌そうなポーズをとってみたのだが、彼がどうしてもお好み焼きが食べたい食べたいと言いまくるので、結局イタリアンのことは言い出さずに、その日はお好み焼き屋に行くことにした。
いざ焼き上がって、はふはふ言いながら嬉しそうに食べている奴を見ていたら、「ああイタリアンにしなくてよかった。」と私は思った。そして、「本当は何が食べたかったの?」と聞かれても、なんだか最初からお好み焼きが食べたいと思っていたような錯覚すら感じた。
相手が幸せなら自分も幸せなどと書くと、ものすごく偽善の匂いが漂うけれど、本音を隠して誰かに同調することでその場の和が保たれるならば、もっと言うならば喜ぶ誰かの顔が見られるのならば、付和雷同も決して悪いこととは言い切れない。
八方美人と呼ばれる人は、確かに芯がしっかりしていないのかもしれないけれど、単に価値観として人に喜んでもらいたいという思いが強いだけなんだと思う。つまり誰かを押しのけてまで貫きたいという欲求が存在しないだけで、自分の意見を言わないのではないということ。言うほどの意見なり欲求なりが無いのだから。
あまり評判が良くないであろうお調子者というのも確かにいるけれど、真の利他愛とは、八方美人の中にこそその芽が見いだせるのかもしれない。
今の彼氏ともし結婚するならば、少々ぶつかることがあっても、妥協できる範囲で彼が喜ぶことを選択したいと思う。そして彼が快適だと思える状態というのを、なるべく(ほかの人が作れないのなら)私が作り続けていけたらとも思う。
誰かに対するこういった気持ちが最高潮に達したときこそ、結婚すべき時なのかなと思ったりした。
まだ最高潮とは言いきれないし、諸々の現実的な問題もあるので、しないけれど。
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