夢みる神経症患者

2005年7月1日
何かにハマってる状態、というのが自他共にオタクと認めさせる上での必須条件だと思えるが、この「ハマる」という行動自体がそもそも謎に満ちている。

ネットサーフィン中に衝撃的な記述を見つけてしまったのだけど、恋愛、つまり誰かを好きになってる状態を科学的に説明すると、いわゆる「脅迫神経症」なのだそうだ。1日に4時間以上一人の特定の相手のことを考えると、血中から神経伝達物質セロトニンの働きを助ける蛋白質が減少するらしい。その対象は実在の人物のときもあるし、架空の人物(もしくは遠すぎて会えない人物)のときもある。

そして後者の場合、あまり「恋愛している」とは言いにくい場合が多いから、こういうときに関しては「ハマっている」と形容するのだろう。

恋愛の初期段階はいつでもそうだけど、片思い中って苦しいフリして結構楽しいし、下らないこと(それこそ授業中に目が合ったとかその程度)がきっかけで、普段じゃあり得ない位ハイテンションかつはっぴ〜〜〜♪になったりする。現実の恋だとこの状態は意外な展開でぶち壊れることもあるが、ハマってるときに関しては(自分で望む限り)永遠に継続する。ここがリアルとバーチャルの大きな違いであろう。

…ってな感じで結論の出そうなことを書くつもりだったのに、なんか自分でも何が言いたかったのかよくわからなくなってしまった。

「ハマってる」時に愛しているキャラクターは、いつだって架空の存在(どう頑張ったって会うことはできない)だ。でも二次創作の中でオリジナルを上回る存在感を付与されていき、制作者と莫大な数のファンによって深く練り上げられた設定は、私たちの中途半端な自己分析を遙かに凌駕する位に完璧なキャラクター(性格)になる。

最近思うのだけど、「私」という存在は現時点で確かに存在しているから、その点では紙の上のキャラクターに勝っていると言えるけれど、では死んでしまったらどうなるのだ、と。

「私」がたった今死んでしまったら、私を知る親・友人・恋人位しか今の「私」を記憶しない。かろうじて子どもを作った後に死んだとしても、その子の世代までしか記憶されない。その証拠に、私はひいおじいちゃんのお父さんがどんな人だなんて知らないもの。ということは、あと100年以内に確実に「私」は消滅するのだ。

「私」が死んだ後に私の娘なり息子なりが「お母さんはこんな人だった。好きだったな。」などと思い出すことと、今の「私」が紙の上のキャラクターを「格好いいな。好きだな。」と思うことに、果たしてどれだけの違いがあるのだろう。どちらも実体が無いけれど、思う人の心の中に存在しているということは、それが「生きている」ということなのではないか。

そう考えると、「ハマってる」という状態が既に恒久性を持っているわけなのだから、比較法の論理により、架空のキャラに恋することの方が、現実の人に恋することよりもかなり理想的な愛の図だとも言える。(この場合の"理想"とは、いわゆるプラトン主義でいう"イデア"ではなく、欠点たる要素が無いという意味で使っている。)

架空のキャラを愛してしまうオタクたちは、人間がどうしても理想とか本質に恋いこがれてしまう(こういう感情をエロスと呼ぶらしいね)宿命から目を背けずに、むしろそれらに素直に従っている真っ直ぐな人々とも言える。そして案外こういう人たちは多いね。誰だって、幼少時代に培われた理想の恋人像と現在の恋人との食い違いに悩むんだから。

さてこれが人間の本能だとわかったところで、それがいいか悪いかに関して絶対的な判断は誰にも下せない。いつだってそうだ。比較分析して磨き上げられた結論(仮定ともいえるな)は、善悪の基準と何の接点も無い。

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