だから私は本を読む
2005年7月6日例えば、自分がものすごく読書が好きで、かつインドアなタイプの人間だとする。そして相手が情緒的なことは苦手で、でも体を動かすのが大好きな人間だとする。
この場合、本人たちはお互いに自分のタイプを認識しているから、自分と同じような趣味や特性を持つ相手を欲するのだろうか。誰だって自分が良いと思うことを共有できる楽しさは知っているだろうし、その相手が生涯の伴侶となり得るのなら、こんな楽しいことはないだろうし。
もう一つ例えを上げる。多くのエンターテインメントにはロマンスの要素が含まれるが、第三者(現実に生きる私たち、つまり鑑賞者ね)から見るとお似合いなカップルでも、当の本人たちはそれぞれ理想とする異性像を持っていたりもする。「あーあ。こんな奴じゃなくてもっと…」なんて言っている彼らの様子こそ、とても微笑ましく見えるのだが。
つまり、「似た者同士」がいいのか、それとも「お互いの足りない部分を補い合う関係」がいいのかという問題である。
前述のインドア対アウトドアの二人の場合、本ばかり読んでいて外に出ない相手をもう一人が外に連れ出すことが考えられる。そして外で遊ぶことばかり考えていて本を読まない奴には、もう一人が彼/彼女でも読めそうな本をあてがえる可能性もある。
ただその一方で、もしインドア&インドア、アウトドア&アウトドアという組み合わせのカップルが誕生したら、お互いに好きな本の話をしたり、新しい遊びスポットを一緒に開拓できるかもしれない。それはそれで楽しそうである。
もちろんこういった実利的な問題だけではなく、精神的な相性の問題だってあるだろう。読書好きな人間は多くの場合理屈っぽい(必ずしも全員がそうだと言っているわけではない)し、理屈っぽい人間同士がくっついたら、なーーんとなく厄介そうである。
そう考えると、理屈っぽいけど机上でしか論を進められないタイプの人間には、やはり外の世界に連れ出してくれる相手が必要なのかもしれない。この理論が効をなすと、いわゆる「お互いの足りないところを補い合う」良い二人になれたりするのであろう。もちろんそれは第三者から見たときの話であるが。
そう、第三者から見た場合に…というのが、この問題の厄介なところである。
大抵そのカップルがお似合いかどうかなんてのは、本人たちにはわからない。(自分たちがお似合いだと認識し合ってる二人ってのもそれはそれで気持ち悪い)「私たちってどうなの?」と思いながらもなんとなく付き合ってる二人こそ、彼らの友達は「なんだかんだでお似合いだよ」などと評したりするのだ。
誰しも理想(イデア)を追い求めるエロスの感情を持っている、と前回書いたけれど、理想じゃなくて今ある現実を客観的に眺めたとき、それはそれであるべき良い姿だったなどという例は、多分ものすごい数で存在するだろう。
小説でも映画でも漫画でもゲームでもアニメでもいいけど、いわゆるエンターテインメントに登場するカップルが素敵に見えるのは、それらを鑑賞する私たちがおしなべて「傍観者」だからではないだろうか。
そして現実がつまらないと嘆く私たちは、皆自身がエンターテインメントの中に生きる主人公だから(映画みたいに波瀾万丈な日々でもないだろうが)こそ、苦しんだり戸惑ったりするのだ。
生身の異性ではなく架空のキャラクターに恋する人たちは、こういった意味で現実逃避していると言わざるを得ないけれど、いわゆる「カップリング」を構築して萌えている少女らを、私は否定することができない。
そりゃ現実の恋なんて、苦しいばかりだもん。
この場合、本人たちはお互いに自分のタイプを認識しているから、自分と同じような趣味や特性を持つ相手を欲するのだろうか。誰だって自分が良いと思うことを共有できる楽しさは知っているだろうし、その相手が生涯の伴侶となり得るのなら、こんな楽しいことはないだろうし。
もう一つ例えを上げる。多くのエンターテインメントにはロマンスの要素が含まれるが、第三者(現実に生きる私たち、つまり鑑賞者ね)から見るとお似合いなカップルでも、当の本人たちはそれぞれ理想とする異性像を持っていたりもする。「あーあ。こんな奴じゃなくてもっと…」なんて言っている彼らの様子こそ、とても微笑ましく見えるのだが。
つまり、「似た者同士」がいいのか、それとも「お互いの足りない部分を補い合う関係」がいいのかという問題である。
前述のインドア対アウトドアの二人の場合、本ばかり読んでいて外に出ない相手をもう一人が外に連れ出すことが考えられる。そして外で遊ぶことばかり考えていて本を読まない奴には、もう一人が彼/彼女でも読めそうな本をあてがえる可能性もある。
ただその一方で、もしインドア&インドア、アウトドア&アウトドアという組み合わせのカップルが誕生したら、お互いに好きな本の話をしたり、新しい遊びスポットを一緒に開拓できるかもしれない。それはそれで楽しそうである。
もちろんこういった実利的な問題だけではなく、精神的な相性の問題だってあるだろう。読書好きな人間は多くの場合理屈っぽい(必ずしも全員がそうだと言っているわけではない)し、理屈っぽい人間同士がくっついたら、なーーんとなく厄介そうである。
そう考えると、理屈っぽいけど机上でしか論を進められないタイプの人間には、やはり外の世界に連れ出してくれる相手が必要なのかもしれない。この理論が効をなすと、いわゆる「お互いの足りないところを補い合う」良い二人になれたりするのであろう。もちろんそれは第三者から見たときの話であるが。
そう、第三者から見た場合に…というのが、この問題の厄介なところである。
大抵そのカップルがお似合いかどうかなんてのは、本人たちにはわからない。(自分たちがお似合いだと認識し合ってる二人ってのもそれはそれで気持ち悪い)「私たちってどうなの?」と思いながらもなんとなく付き合ってる二人こそ、彼らの友達は「なんだかんだでお似合いだよ」などと評したりするのだ。
誰しも理想(イデア)を追い求めるエロスの感情を持っている、と前回書いたけれど、理想じゃなくて今ある現実を客観的に眺めたとき、それはそれであるべき良い姿だったなどという例は、多分ものすごい数で存在するだろう。
小説でも映画でも漫画でもゲームでもアニメでもいいけど、いわゆるエンターテインメントに登場するカップルが素敵に見えるのは、それらを鑑賞する私たちがおしなべて「傍観者」だからではないだろうか。
そして現実がつまらないと嘆く私たちは、皆自身がエンターテインメントの中に生きる主人公だから(映画みたいに波瀾万丈な日々でもないだろうが)こそ、苦しんだり戸惑ったりするのだ。
生身の異性ではなく架空のキャラクターに恋する人たちは、こういった意味で現実逃避していると言わざるを得ないけれど、いわゆる「カップリング」を構築して萌えている少女らを、私は否定することができない。
そりゃ現実の恋なんて、苦しいばかりだもん。
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