祈りの原点
2005年8月22日私は毎年初詣に行く。
生まれてから一体何度神に祈ったか見当もつかないが、ものすごく鮮明に覚えている元旦がある。
高校時代に初めて付き合った彼と一緒に行った初詣だ。恋愛小説になりそうなほどの強烈な片思いの末に付き合った彼だったので、さぞ盛り上がったかと思いきや、私の心は当時急速に冷め始めていた。
「心から好きになれる人ができますように。」と、当時の私は神に祈ったのだ。そんな願い事を新年早々している時点で、彼に対する気持ちが無くなっていると悟るべきだったのだが、「初めてできた彼氏」を捨てる勇気が無くて、ずるずると半年も続けてしまった。
次に付き合った彼と行った初詣でも、私は同じことを神に祈った。
私はなぜか年末に彼氏ができるパターンが多かったのだが、普通なら最高潮に盛り上がるべき時期にこのような願い事をしていたことを考えると、恋愛体質でありながら「付き合い始めると冷めてしまう」という厄介な性分を持っていた証拠である気がする。
さて、あれから幾星霜。(って言うほど時は経ってないけど。)
当時の私の願いは見事叶った。普段は全く足遠い神社に年明けだけ赴くという罰当たりな私の願いを、神は長い時を隔てて叶えてくださったのだ。
"祈り"は通じるのだろうか。
目に見えないものを信じるということは、とても難しいことだと私は知っている。でも科学的に解明できないことは全て嘘っぱちだという乱暴な意見を信じるというのも、個人的には違和感を覚える。だって世の中にはそうと知っていても不思議なことが多すぎるから。
うちの彼(今書いていて気付いたけど、すでに「元カレ」ですね。)は自己主張が無い割にわがままという面倒臭い性格の人で、何よりも自分の身なりを気にしていて、「オマエ、もっと世の中には大切なことがあるだろうよ。」と諭したくなるような人だった。
誠に刹那的に生きていて、「今、この飯がうまければそれでよろしい。」という考えの人だった。私が小難しい話を持ち出すと「真面目な話は好きじゃない。」と一蹴され、キスをしたいと言えば拒否され、エッチしたいと言えば「そんな気分じゃない。」と言われ、そのくせ私が乗り気じゃなくても自分のペースだけは崩さない人だった。
こう書くと「どこが好きだったのよ?」と言われそうだけど、私は確かに彼を心の底から好きだった。
自分が大した人間だと言うつもりはないけど、私は彼のろくでもないところが好きだった。そのろくでもないところを愛せる自分が好きだった。ろくでもない彼のペースを守ってあげるのが私の使命だと思っていたし、そこまで彼の面倒を見ることができる人もこの世に私以外いないような気がする。別れた今でも。随分上から見ているような意見で恐縮だが。
だから、今は彼と新しく付き合う女の子が彼を私以上に大切にしてくれるのか、それだけが心配でたまらない。
自分が食べたいものがあっても、彼が食べたいものを優先してあげられるか。彼がしたいと思ったタイミングで体を許してあげられるか。五分前まで「○○がしたい。」と言っていたくせに、すぐ次の瞬間には「やっぱりしたくなくなった。」と言ったりする気ままさにも腹を立てずにいられるか。
彼の言うことをただホイホイ聞くのとは違うのだ。そうでなく、彼が快適に生きていける環境をなるべく自分が作ってあげたいという気持ちを持っていられるのか、問題はそこなのだ。
幸せに生きてほしい。新年でも初詣でもないけど、私は神に祈ってそれが叶うなら、祈りたいのだ。
こんな綺麗事を自分が心から言える時期が来るなんて、高校時代の私は予想だにできなかっただろう。でもただ祈るしかできない自分を認識した今は、彼への憎しみも後悔も消え失せて、とても穏やかで静かな気持ちである。
断言してもいいけど、世の中の幸不幸は全てただの事象に過ぎず、いつでも自分の心は平安になる準備ができている。目の前の現象と自らの心持ちは連動しているようで、実はあまり関係無いということだ。究極な話だけど。
宗教さえあれば人は生きていけると思うし、だからこそ世の中から無くならないのだ。神を信じる心も。そして祈りも。
生まれてから一体何度神に祈ったか見当もつかないが、ものすごく鮮明に覚えている元旦がある。
高校時代に初めて付き合った彼と一緒に行った初詣だ。恋愛小説になりそうなほどの強烈な片思いの末に付き合った彼だったので、さぞ盛り上がったかと思いきや、私の心は当時急速に冷め始めていた。
「心から好きになれる人ができますように。」と、当時の私は神に祈ったのだ。そんな願い事を新年早々している時点で、彼に対する気持ちが無くなっていると悟るべきだったのだが、「初めてできた彼氏」を捨てる勇気が無くて、ずるずると半年も続けてしまった。
次に付き合った彼と行った初詣でも、私は同じことを神に祈った。
私はなぜか年末に彼氏ができるパターンが多かったのだが、普通なら最高潮に盛り上がるべき時期にこのような願い事をしていたことを考えると、恋愛体質でありながら「付き合い始めると冷めてしまう」という厄介な性分を持っていた証拠である気がする。
さて、あれから幾星霜。(って言うほど時は経ってないけど。)
当時の私の願いは見事叶った。普段は全く足遠い神社に年明けだけ赴くという罰当たりな私の願いを、神は長い時を隔てて叶えてくださったのだ。
"祈り"は通じるのだろうか。
目に見えないものを信じるということは、とても難しいことだと私は知っている。でも科学的に解明できないことは全て嘘っぱちだという乱暴な意見を信じるというのも、個人的には違和感を覚える。だって世の中にはそうと知っていても不思議なことが多すぎるから。
うちの彼(今書いていて気付いたけど、すでに「元カレ」ですね。)は自己主張が無い割にわがままという面倒臭い性格の人で、何よりも自分の身なりを気にしていて、「オマエ、もっと世の中には大切なことがあるだろうよ。」と諭したくなるような人だった。
誠に刹那的に生きていて、「今、この飯がうまければそれでよろしい。」という考えの人だった。私が小難しい話を持ち出すと「真面目な話は好きじゃない。」と一蹴され、キスをしたいと言えば拒否され、エッチしたいと言えば「そんな気分じゃない。」と言われ、そのくせ私が乗り気じゃなくても自分のペースだけは崩さない人だった。
こう書くと「どこが好きだったのよ?」と言われそうだけど、私は確かに彼を心の底から好きだった。
自分が大した人間だと言うつもりはないけど、私は彼のろくでもないところが好きだった。そのろくでもないところを愛せる自分が好きだった。ろくでもない彼のペースを守ってあげるのが私の使命だと思っていたし、そこまで彼の面倒を見ることができる人もこの世に私以外いないような気がする。別れた今でも。随分上から見ているような意見で恐縮だが。
だから、今は彼と新しく付き合う女の子が彼を私以上に大切にしてくれるのか、それだけが心配でたまらない。
自分が食べたいものがあっても、彼が食べたいものを優先してあげられるか。彼がしたいと思ったタイミングで体を許してあげられるか。五分前まで「○○がしたい。」と言っていたくせに、すぐ次の瞬間には「やっぱりしたくなくなった。」と言ったりする気ままさにも腹を立てずにいられるか。
彼の言うことをただホイホイ聞くのとは違うのだ。そうでなく、彼が快適に生きていける環境をなるべく自分が作ってあげたいという気持ちを持っていられるのか、問題はそこなのだ。
幸せに生きてほしい。新年でも初詣でもないけど、私は神に祈ってそれが叶うなら、祈りたいのだ。
こんな綺麗事を自分が心から言える時期が来るなんて、高校時代の私は予想だにできなかっただろう。でもただ祈るしかできない自分を認識した今は、彼への憎しみも後悔も消え失せて、とても穏やかで静かな気持ちである。
断言してもいいけど、世の中の幸不幸は全てただの事象に過ぎず、いつでも自分の心は平安になる準備ができている。目の前の現象と自らの心持ちは連動しているようで、実はあまり関係無いということだ。究極な話だけど。
宗教さえあれば人は生きていけると思うし、だからこそ世の中から無くならないのだ。神を信じる心も。そして祈りも。
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