わたしは発光体

2005年8月26日
リアルの私を知っている人になら理解してもらえるはずだが、私は割と「がんばる人」のような気がする。

こう言うと「えらいねえ。」などと人に言われたりするのだが、実はそうでもない。

むしろ「がんばること」の方が楽な場合が多いからだ。とりあえずがんばっておけば、後で失敗しても諦めがつくし、何より途方に暮れて為すすべもない状態の方が、「がんばること」よりよっぽど辛い気がするから。

で、まさに今がその途方に暮れて為すすべもない状態だったりするのだけど、さてどうしたものかともがき苦しんで、私は少しずつ自身の気持ちを安定させるコツみたいなものを手に入れ始めている。

発信者と享受者が双方存在する状態というのは、そのどちらかが独りよがりになるとバランスを崩す恐れがあるということで、ある種の緊張状態になるけど、これはよくもあり悪くもある。享受者がいるからこそ発信者はよいものを発信しようとするし、つまり可能性は無限大だ。

ではもし発信者だけが存在していて、だーれも享受する人がいなかったら。

うわつまんねぇ、って思う。でもこれが今回の「自身の気持ちを安定させるコツ」に繋がるような気がしたのだ。

最近の私は一人でいると泣いてばかりで、でもそういうとき、ただ涙を流し続ける自分を部屋の天井から眺めるような視点で、ふと客観視できる瞬間がある。「ああ、私は泣いているんだ。」って。

で、なんで涙を流しているのかを、これまた客観視して考えるの。すると絶対行き着くのは、小難しいことじゃなくて、ただ「あの人が好きだから。」というめちゃめちゃ簡単な理由だってわかるのだ。

と、わかった途端に、とても安らかな気持ちになるから不思議である。

今の「あの人が好き」という想いは、ただただ発信されるばかりで、どこかで受けとめてもらえるはずもないけど、でもそれは悪いことではないはず。むしろ発信し続けるだけであっても、それはそれで無限の何か(可能性、とかじゃなくて)をやはり秘めてるんだよね。

「好き」という気持ちは受けとめる人がいなければ意味が無いと、はっきり意識してはいなかったけど、私はきっとそう思いつつあったのだ。「好き」という気持ちは、私が発してあの人が受けとめて、その移動がお互いを幸せにするのだと。

でも「好き」という気持ちは、ただそこにあるだけで、発する者自身を幸せにできる圧倒的な力を既に持っている。

発光する太陽みたいだ。

太陽の光は、地球にも届いて私たちに恵みをもたらすけど、太陽そのものが既にあったかいのだ。光を与える対象である惑星が消滅しても、自らが光るのをやめる必要も理由も無い。

これを読んでくださる人に言うでもなく、あの人に言うでもなく、ただ自分が光りたいからここに書こうと思う。相当独りよがりな内容でもいいと割り切って書こうと思う。

あの人が好きだ。


「暑いね。」と言うと、「ねっ、暑いね。」と答えてくれるところが好きだ。

「あのね。」と言うと、「うん、なぁに?」と聞いてくれるところが好きだ。

「どう思う?」と問うと、「よくわかんないや。」と言うところが好きだ。

「何考えてるの?」と問うと、「何も考えてないよ。」と言うところが好きだ。

「それは自慢?」と問うと、「うん、自慢だよ。」と言うところが好きだ。

「自分のこと格好いいと思ってるでしょ?」と問うと、「うん、思ってるよ。」と言うところが好きだ。

「私のこと今うるさいと思ったでしょ?」と問うと、「うん、思ったよ。」と言うところが好きだ。

「私のこと好きでしょ?」と問うと、そこだけは「ううん、好きじゃないよ。」と言うところが好きだ。

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