23歳の言語学
2005年9月21日価値観の話をしようか。
人と人が関係を持つ以上、この「価値観」の問題を抜きにはやっていけないだろう。でも、結局「価値観って何?」と問われると、私は未だによくわからない。
で、多分一生かかってもわからないとは思うけど(死ぬまでに限りなく真実に近い仮説を提唱したいものだ。)、とりあえず最新の仮説を忘れないうちに書いておこうかと。
結局ね、「価値観」は言語なのだよ。
でね、更に言うなら、言語は「耳から入る情報」なのだよ。
(目から入る情報でもあるが、ことコミュニケーションに関しては耳に分があるということで。)
つまりね、頭の中で「俺はおまえが好きだ。」と至ってシンプルに構築されていても、その人の言語野がやたら成熟していて複雑にアウトプットされちゃうなら(例えば、「ワタクシはあなたを美しいと思うが故に、ほかの誰にも渡したくないという思いを抱いております。」ってな感じに)、それはアウトプットされた方が全てになってしまうのだということ。逆も然り。どれだけ複雑に絡み合った想いも、言語野で「ボク、キミがほしい!」としか変換できなかったら、届けられる相手にはそうとしかとられない。
さて、以上のことを理解した上で。
「価値観」を互いに晒し合うときって、やっぱり自分の言語野で一回変換されているはずなんだよね。だって人は言語無しでは認識すらできないから。(アラスカの人は雪ひとつとっても七色に見えるらしいよ。日本人は「白」としか認識できないから、一色にしか見えないのだそうで。ごっつ基本的な記号論ですんません。)
つまり、自分の中でどんなに曖昧なままでも、綺麗に言葉で表現できるなら、相手はそれをその人の価値観だと思ってしまうんだ。面白いね。
でね、更に「耳から入る情報」ってのは、言葉そのものの意味にプラスして、「声」という余計な情報がくっついちゃうわけだよ。コレ、実は意外に知られてないけど厄介。
私は女なので、視覚よりは、聴覚や触覚など五感を駆使して感じる性質なのね。たぶん。(男性って体を触られても女性より気持ちよくないそうだ。それよりは"見て"興奮したいらしく。それは本当?)で、だからこそ、「価値観」+「声」の場合、かなり「声」の占める割合が高くなってしまうの。もともと価値観の方が先にあるべきなのに…。
甘く柔らかな声と、美しく言語化された価値観がセットになったとき、私はその人の頭の奥に潜んでいる「原型」をきちんと客観的に判断できる自信がありません。
そして、それを自分の価値観と照らし合わせて、合うか合わないか、まともな結論を出せる自信がありません。
色々難しいことを書いてしまったけど、価値観なんてどうでもいいやん、というのがちょっと本音。何が重要かって、ただなんとなく話してて、なんとなく共感できて、なんとなく「あーわかるー。」って言えて、次から次へと飽きもせずに話ができるなら、それは「価値観」が合っているということなのではないかな。
そして、「なんかしっくりこない…。」とか「否定したくなる。」とか「言葉を選ぶのが大変。」と、これもなんとなーく思うなら、それはそういうことなのではないかな。
このBLOGは、「目から入る情報」だけど、皆様の中で私という女がどのような価値観を持っているように映るのだろう。実際に会って話すよりも、客観的に私の「価値観」が垣間見えるのではないかな。
それでも人と人とのコミュニケーションは、携帯のメールや手紙で済ませてはやはりいけないのだ。実際に会って本音をぶつけて、言語以外の情報をより噛みしめて、それで好きか嫌いか合うか合わないか仲直りするか別れるかを判断しなくてはいけないのだ。大事な話であればこそ。
なんか、すごく今更な結論…
こんなに長く書いたのに。もう寝るわ。
#そう、諸々の問題は少し解決の気配。少し、ね。全部ではないです。
人と人が関係を持つ以上、この「価値観」の問題を抜きにはやっていけないだろう。でも、結局「価値観って何?」と問われると、私は未だによくわからない。
で、多分一生かかってもわからないとは思うけど(死ぬまでに限りなく真実に近い仮説を提唱したいものだ。)、とりあえず最新の仮説を忘れないうちに書いておこうかと。
結局ね、「価値観」は言語なのだよ。
でね、更に言うなら、言語は「耳から入る情報」なのだよ。
(目から入る情報でもあるが、ことコミュニケーションに関しては耳に分があるということで。)
つまりね、頭の中で「俺はおまえが好きだ。」と至ってシンプルに構築されていても、その人の言語野がやたら成熟していて複雑にアウトプットされちゃうなら(例えば、「ワタクシはあなたを美しいと思うが故に、ほかの誰にも渡したくないという思いを抱いております。」ってな感じに)、それはアウトプットされた方が全てになってしまうのだということ。逆も然り。どれだけ複雑に絡み合った想いも、言語野で「ボク、キミがほしい!」としか変換できなかったら、届けられる相手にはそうとしかとられない。
さて、以上のことを理解した上で。
「価値観」を互いに晒し合うときって、やっぱり自分の言語野で一回変換されているはずなんだよね。だって人は言語無しでは認識すらできないから。(アラスカの人は雪ひとつとっても七色に見えるらしいよ。日本人は「白」としか認識できないから、一色にしか見えないのだそうで。ごっつ基本的な記号論ですんません。)
つまり、自分の中でどんなに曖昧なままでも、綺麗に言葉で表現できるなら、相手はそれをその人の価値観だと思ってしまうんだ。面白いね。
でね、更に「耳から入る情報」ってのは、言葉そのものの意味にプラスして、「声」という余計な情報がくっついちゃうわけだよ。コレ、実は意外に知られてないけど厄介。
私は女なので、視覚よりは、聴覚や触覚など五感を駆使して感じる性質なのね。たぶん。(男性って体を触られても女性より気持ちよくないそうだ。それよりは"見て"興奮したいらしく。それは本当?)で、だからこそ、「価値観」+「声」の場合、かなり「声」の占める割合が高くなってしまうの。もともと価値観の方が先にあるべきなのに…。
甘く柔らかな声と、美しく言語化された価値観がセットになったとき、私はその人の頭の奥に潜んでいる「原型」をきちんと客観的に判断できる自信がありません。
そして、それを自分の価値観と照らし合わせて、合うか合わないか、まともな結論を出せる自信がありません。
色々難しいことを書いてしまったけど、価値観なんてどうでもいいやん、というのがちょっと本音。何が重要かって、ただなんとなく話してて、なんとなく共感できて、なんとなく「あーわかるー。」って言えて、次から次へと飽きもせずに話ができるなら、それは「価値観」が合っているということなのではないかな。
そして、「なんかしっくりこない…。」とか「否定したくなる。」とか「言葉を選ぶのが大変。」と、これもなんとなーく思うなら、それはそういうことなのではないかな。
このBLOGは、「目から入る情報」だけど、皆様の中で私という女がどのような価値観を持っているように映るのだろう。実際に会って話すよりも、客観的に私の「価値観」が垣間見えるのではないかな。
それでも人と人とのコミュニケーションは、携帯のメールや手紙で済ませてはやはりいけないのだ。実際に会って本音をぶつけて、言語以外の情報をより噛みしめて、それで好きか嫌いか合うか合わないか仲直りするか別れるかを判断しなくてはいけないのだ。大事な話であればこそ。
なんか、すごく今更な結論…
こんなに長く書いたのに。もう寝るわ。
#そう、諸々の問題は少し解決の気配。少し、ね。全部ではないです。
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