ここでろ過して

2005年10月3日
自分で言うとやな感じなのは百も承知だが、敢えて書かせていただく。

私は、最近、ようやく「本物」と「ニセモノ」の区別がつくようになってきたと思う。まだ、「これはニセモノだからやめよう。」と事前に分別することはできないのだが、たとえば知らずにニセモノをチョイスしてしまった後に、「あらま!これはニセモノじゃないの!」とわかるレベルにはなってきたということ。

すごく抽象的な話なのだが、私という人間は、生まれたときから大切にしてきた「素の自分」と、後から注入した「外的要因」をブレンドした総体なのだ。「素の自分」のまま、温室のような場所ですくすく育ったら今の私は無かった。だから、それはそれでいい。でも、その「外的要因」も、やはり全てが全て必要だったわけではない。

「外的要因」の要素が、「素の自分」を上回るようになると、きっと私は「ニセモノ」しか見えなくなる。わかり辛いから例を出すと、大学でできた彼氏(これがまた、やたらオシャレに気を使うシティシティシティボ〜イ♪で。)が「俺は、JJ系の派手めなスタイルが好きだな。あーゆー格好をしてよ。」と言えば、合点承知、いざ鎌倉、いきなりお姉雑誌を買い漁り、服だのアクセサリーだので身を飾り、そんな自分が好きだったのだ。尽くす自分が好きだった。

だから、私は「この愛は本物だ!」と信じて疑わなかったけど(今も、正確に言えば、ニセモノだとは思っていないが。あれはあれで、確かに存在していた「愛」だった。)、あの自分はものすごく不自然である。「ニセモノの自分」である。お姉の格好が悪いのではなく、たとえば、TPOを考えずにフワフワのファーがついたトップスにカツカツのピンヒールにぐるぐるの巻き髪で授業に出るなんて、なんちゅうかものすごく不自然である。気合いが空回りというか、「あなた、頑張りすぎててダサイよ…」と肩の一つも叩いてやりたくなるような。

学校に行くのだから、ノートが入るナイロン素材(軽いし)のトートバッグでいいではないか。冬なのだから、いくらニットでもノースリーブを着るべきではない(冷えるよ…)。放課後に友達とお出かけする用事があるなら、歩きやすいスニーカーでいいではないか(靴擦れもできないし)。ナイロンと長袖とスニーカーが「本物」だと言いたいのではないけど、要はそういうこと。目が曇り、正確な判断ができない状態。それが「外的要因」に負けているとき。

だからね。

今は、その「外的要因」を"ろ過"しているのだと思う。

23年間、取り入れられるものは全部注入してきた。それがいいものか悪いものかもわからずに。そう、悪いものだけではなかった。お姉が好きだった元カレがくれた「本物」だって、確実にあるのだ。でも、今はやはり混沌としている。だから、"ろ過"するのだ。必要なものと不必要なものを選り分けて、「素の自分」と混ぜたときにもっと綺麗になるように。純度100%(素の自分のまんまってことね)では体現できないハイブリッドの最高級を、自分の中で完成できるように。

あの人は、決して頑張り過ぎているわけでもなく、(自分は成熟しているのに)未成熟なままの私を見下すこともない。そして、「本物」と「ニセモノ」を選り分ける力も、持っている。多分、私よりも。本人に伝えたら、「褒め過ぎだ。」とか「俺もまだまだだ。」などと言うかもしれないけど、私も多少「本物」を見抜ける目を持てるようになったから、彼の良さがわかるのだと思う。他人が目の前で食事をしていても平気で化粧を直すようなあの頃の私だったら、きっとわからなかったと思うよ。

それでもおめかしはするけどさ。おめかしは、本来こういうときにするものではないかな。ちょっと特別な人に会う日に、ちょっと特別な自分になるために。学校に行くときではなくて。だから、また、今週末、私は少しだけ「本物」のおめかしをして、"ろ過"してくれる彼に会いに行こうと思う。

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