思い出話を、ひとつ。

私は、元カレと最後にセックスした日を覚えていない。元々、そういう欲求の少ない人だったように思う。本人もそう言っていた。それに関する私の見解はここに書くようなことではない。なぜなら、彼は「そういう(あまりセックスが好きじゃない)人」だからだ。

どういうことかというと、「そういう人」に私が何かを強く求めるというのは、私の過剰要求ということになり、つまり私が悪いのである。ことセックスに関してだと話がややこしくなるので、別の例を挙げると、たとえば私が甘い食べ物をあまり好まないのに、相手が「でも俺は食べたいの!だから今日もケーキバイキングに行きたい!」と言ったら、「まあ、なんて思いやりのない人…。」と誰もが思うでしょう?そういうことだ。

基本的に、彼は私に「女らしいこと」をしばしば要求したが、その割りには私の「女」の部分に発情しているように見えなかった。これは不思議な矛盾である。なんとなくそう思っているのが私にはわかったので、その不安を打ち消したくて、ますますセックスを要求した。「女」として認めてもらうために必死だったのだ。セックスそのものがしたいというよりも、「私とセックスしたがる彼」を見たかったのだと思う。それさえわかれば、実際にコトをいたさなくても満足だったかもしれない。

彼は、私のことを、「いい奴だ。」とよく言っていた。別れるときも言っていたし、別れた後もどうやらそう思っているらしい。このことを人に話せば、「素晴らしいじゃない。セックスしなくても認め合えるなんて。つまり、彼は体が目的じゃなくて、本当に人としてあなたのことが好きなのね。」と言うだろうが、果たしてそうなのだろうか。「人として」というのは、「女として」を飛び越えて、先に成立するものなのだろうか。

「女」が「女として認められる」って、ものすごく基礎的な満たされなくてはいけないポイントだ、とある女性は語る。そうなのだ。つまり、「女」として認められることで十分安心し、そこから「人としての自分」にようやく関心が向かうのである。まず「女としての自分」ありき、なのである。「人としてどうか」は、その後の問題なのだ。ここの順番が前後していたからこそ、私は元カレとの間の違和感を消すことができなかった。

私は、セックスがしたかったんじゃ、ない。

ただ、「人」として中途半端な評価を受けている気がして嫌だったのだ。足し算ができないのに、いきなり分数のかけ算ができるわけないじゃない。まず、足し算を二人で覚えて(つまり「男」と「女」として、二人で認め合ってから)、それから一緒に難しい分数のかけ算(「人」として、どう生きていくか)をしたかった。

「女」としての自分を「人」としての自分以上に意識するなんて、ジェンダーフリーが奨励される現代では疎まれるだろうか。でも、私は、誰よりも「女冥利」を求めている。それは「女」という性に固執しているフェミニストだからではなく、むしろ誰よりも「人」であることを認めてもらいたがっているからなのだ。逆説的な話だが。

男子たるもの、エロであれ!

そして、私が「女冥利」を大切にするのと同じ位、「男冥利」を大切にしてほしい。「守ってほしい」と女のコが思っていても、「甘えるな!」と言わないでほしい。なぜなら、「何があってもこの人が守ってくれる。」という安心感を得ることで、私たち(女)は男より強くなれるのである。またまた逆説的な話だが、「この人が守ってくれる。」と思わせてくれる男性だからこそ、私は守りたいのである。

というわけで、もう一度。

男子たるもの、エロであれ!!



あ、好きな人限定ね。(←これ、書いておかないと大変なことになるな。)

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