A man of letters will write at midnight.
2005年10月5日昨日の文章の勢いで書いてしまおう。もう"淫乱"と呼ばれてもいい。
「セックスとは、文学である。」
と、私は思うのだが。
(いつもいつもセックスだのメスだのオスだの愛だの恋だの書きやがってよー、このあばずれー、と、私の日記をしょっちゅう読んでくださってる方なら思うだろうが、とりあえず黙っててくれ。実は私の卒業論文のテーマにもこれは大きく関わる。セックスを科学することこそ、人間の根本にもっとも近づく行為だ。つまり、それが"生きる"ということで…以下略。)
そう、セックスとはこの世に存在する何よりも文学的な行為である、と。そういう話をしたいのだ。
たとえば、私は、こうして自分の頭の中にぼんやりとあるものを文章にすることが好きで、つまりは脳内のイメージを可能な限り写実的に表そうと、いつでも躍起になっているのである。それはある種、不毛な行為ともいえる。脳内の不可視なものを100%再現することなんて、不可能だ。限界があるのだ。それでも書きたい。なぜだろう。
文学作品が表現するもの、苦悩、愛、喜び、悲しみ、怒り、その他。それはどんな形で表現してもいい。必ず著者には主張したい何かがあるはずなのだ。それを表すのに一番ベストな方法で言葉や形式(文体?)を選んでいく。自由なのだ。
で。
セックスも、本当に自由である。最終的にどうするか(まあ、ほら、こうすれば終わりだみたいなやつがあるじゃないですか。)ということ以外は、すべて個人の裁量に任せられている。でも「目的」が必ずあるはずなのだ。それは文学でいうところの「主題」である。
主題をいかに表現するか。そして、文学にもセックスにも共通する事項として、必ず相手(読者)がいるということが挙げられる。コレ、すごく大事。相手に伝えたいという強い思いが、その作品を良くするし、セックスが盛り上がるかどうかはここに懸かっている。
先述の通り、脳内のイメージを100%言葉にすることなんて不可能だ。だから、「あなたが好き。」という想いが強ければ強いほど、どう表現するかに関して慎重になる。これは私の場合ね。できる限り、そっくりそのまま表現したいのだ。でも「好きだから唇を求める」とかそういう単純な話ではないし、じゃあ「好きだから背中に爪を立てる」のかといえば、そうでもない。ううう…と、私の頭は沸騰してしまう。
ただ、そういう「あなたが好き」という想いをなんとか表現しようと、躍起になって「あーでもない、こーでもない。」と考えている自分はなんとなく好き。最終的に表現できているかどうかは別問題としてね。
で、私のことを(多分?絶対?)好き、と思っている相手が、同じように躍起になって「あーでもない、こーでもない。」と考えているのを見るのも、なんとなく好き。さらに、「これ、うまく伝わってるかなぁ…?」って同時に思ってて、その瞬間ふいに目が合ったり、というタイミングが好き。
セックスとは、文学である。
良さげな結論の後にこんなこと書くのも、すっげアレですけど、「文章を書くのが上手い人」って、多分セックスも上手ですよ。
というか、文章を書くのが好きだと自分で思うなら、それは既にある種の才能(セックスのね)を持っているということ。でも、それを発揮できるかどうかは別問題だ。だって、自分が相手を愛しいと思わなければ「この人は上手だな。」と思えないだろうし、相手がこちらを愛しいと思っていなければ、きっと発揮もしてくれない。
昔、美容師とかコックはテクニシャンらしいという噂があったけど(未だ未確認)、いやいやいや…みたいな。あーやっぱこんなこと書くと、台無しだな。
「セックスとは、文学である。」
と、私は思うのだが。
(いつもいつもセックスだのメスだのオスだの愛だの恋だの書きやがってよー、このあばずれー、と、私の日記をしょっちゅう読んでくださってる方なら思うだろうが、とりあえず黙っててくれ。実は私の卒業論文のテーマにもこれは大きく関わる。セックスを科学することこそ、人間の根本にもっとも近づく行為だ。つまり、それが"生きる"ということで…以下略。)
そう、セックスとはこの世に存在する何よりも文学的な行為である、と。そういう話をしたいのだ。
たとえば、私は、こうして自分の頭の中にぼんやりとあるものを文章にすることが好きで、つまりは脳内のイメージを可能な限り写実的に表そうと、いつでも躍起になっているのである。それはある種、不毛な行為ともいえる。脳内の不可視なものを100%再現することなんて、不可能だ。限界があるのだ。それでも書きたい。なぜだろう。
文学作品が表現するもの、苦悩、愛、喜び、悲しみ、怒り、その他。それはどんな形で表現してもいい。必ず著者には主張したい何かがあるはずなのだ。それを表すのに一番ベストな方法で言葉や形式(文体?)を選んでいく。自由なのだ。
で。
セックスも、本当に自由である。最終的にどうするか(まあ、ほら、こうすれば終わりだみたいなやつがあるじゃないですか。)ということ以外は、すべて個人の裁量に任せられている。でも「目的」が必ずあるはずなのだ。それは文学でいうところの「主題」である。
主題をいかに表現するか。そして、文学にもセックスにも共通する事項として、必ず相手(読者)がいるということが挙げられる。コレ、すごく大事。相手に伝えたいという強い思いが、その作品を良くするし、セックスが盛り上がるかどうかはここに懸かっている。
先述の通り、脳内のイメージを100%言葉にすることなんて不可能だ。だから、「あなたが好き。」という想いが強ければ強いほど、どう表現するかに関して慎重になる。これは私の場合ね。できる限り、そっくりそのまま表現したいのだ。でも「好きだから唇を求める」とかそういう単純な話ではないし、じゃあ「好きだから背中に爪を立てる」のかといえば、そうでもない。ううう…と、私の頭は沸騰してしまう。
ただ、そういう「あなたが好き」という想いをなんとか表現しようと、躍起になって「あーでもない、こーでもない。」と考えている自分はなんとなく好き。最終的に表現できているかどうかは別問題としてね。
で、私のことを(多分?絶対?)好き、と思っている相手が、同じように躍起になって「あーでもない、こーでもない。」と考えているのを見るのも、なんとなく好き。さらに、「これ、うまく伝わってるかなぁ…?」って同時に思ってて、その瞬間ふいに目が合ったり、というタイミングが好き。
セックスとは、文学である。
良さげな結論の後にこんなこと書くのも、すっげアレですけど、「文章を書くのが上手い人」って、多分セックスも上手ですよ。
というか、文章を書くのが好きだと自分で思うなら、それは既にある種の才能(セックスのね)を持っているということ。でも、それを発揮できるかどうかは別問題だ。だって、自分が相手を愛しいと思わなければ「この人は上手だな。」と思えないだろうし、相手がこちらを愛しいと思っていなければ、きっと発揮もしてくれない。
昔、美容師とかコックはテクニシャンらしいという噂があったけど(未だ未確認)、いやいやいや…みたいな。あーやっぱこんなこと書くと、台無しだな。
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