畏怖と愛の相関性
2005年10月8日"リスペクト"というものについて、考える。
(個人的に、早急解決を迫られる致命的な問題。)
人が人を見るとき、その人がどんなことをしているか(仕事内容、勉強内容、などなど)という事項は果たしてどれくらい重要なのだろうか。あとはどこに所属しているか。たとえば、嫌な話だが、私は恋人がもしD通に勤めていたら、「D通の人なのだわ。」というレッテルを捨てきれない。いや、捨てようと思うことはできても、そもそも捨てようと思い頑張ること自体、その概念(「この人はD通の人なのだわ」という)を既に持っているという証明であるし。
いや、まあ、いい。もう率直に書こう。私の恋人は、私の憧れていた会社にお勤めなわけだ。自分が入社できるとは思っていなかったし(現に試験も面接も受けていない)、今「入社できますよ。」と言われても、多分入らない。でも、ソレはソレとして、私はその会社に憧れていた。なんか、すごそうだったから(←めちゃ、的確な表現。今もそう思っている)。
そんな彼はあまり自分の仕事のことを話さないのだけど、夕べは酔っていたせいもあるのか珍しく饒舌で、興奮していた。で、私は就職活動をしていたせいもあるのだけど、社会人の皆様がおしなべて「偉い」ように思えてしまうのだ。どんな仕事をしているかという問題よりも、先にこれがある。「社会人」というだけで、まず「偉い」。しかも、その仕事内容が私の憧れていたものだったらなおさら。総括すると、私は彼を"リスペクト"しているのだ。
私はその"リスペクト"を彼に見せていいものかどうか、悩む。そして、夕べ、ついに見せてしまった。明かしてしまった。「尊敬してるんだからいいじゃん。」という簡単な話ではない。それこそ、私は彼にレッテルめいたものを貼り付けているのではないのか。
敢えてここに書くまでもないが、私は彼が○○社の人間だから好きになったのかといえば、断じて違う。ってか、好きになってから知った(あの瞬間惚れたのだ、と明確に言えないのだが、それにしても)。だから、彼の「どこでどんな仕事をしているか」という事項は、私がその人を好きになるかならないかには多分あまり影響していない。しかしね、実際付き合い始めるとこれは相当重要なのだ。
さらに。
「○○社の人間でこういう仕事をしている。すごいなあ。」という"リスペクト"以外に、私は彼をかなり人間として買いかぶっている傾向があるので、つまり、ダブル・"リスペクト"だ。リスペクトしまくりでどうしましょう、という。神格化しているわけではないのだが(変なこと言ったりもするし。エロだし。)、この感情を抱き続けることは彼にとって迷惑なのではないだろうか。
私も、実は、人に話すとたまに「すごーい!!」と言われたりする大学に通っている。でも、そう言われると、「ありがとう。」と言いつつ、なんか違和感を感じたり。「別にすごくないよ。浪人したし。」とか言いたくなるし、要は快か不快かでいえば、不快寄りの感情が発生する。それはなぜかといえば、私は「○○大の学生だ」という以外のアイデンティティに関して自信があるからだ。身分や肩書きを取っ払っても、残る何かがあると信じているから。だから、そこを見てほしいのだ。
じゃあ、彼に対してそれができているのですか、お嬢さん。という話になる。ええ、できていません。
仮に、彼に対して仕事や肩書きに関する"リスペクト"が消えたとしても、私は彼の考え方や人生の捉え方に深い共感を覚えるので、もう一つ存在する"リスペクト"が消えないの。男として、人間として、彼を「素敵」だと思う。でも、男と女が愛し合うときに、どれくらい「互いを敬う」意識が必要なのだろうと考えると、私は本来必要な分以上に彼を敬っているのではないか、と。「敬う」という感情は、本来よそよそしいものではないのか。だって、下民がやんごとなき人を見るとき、畏怖はすれどもその感情は愛とはほど遠いような気がするから。
そう。「畏怖」は、愛とは違う。
でも、そうじゃないの。
私は彼のふにゃ〜とした笑顔が好きで(笑うと目尻に皺ができるの)、あとは言葉選びに慎重になっているときに見せる陰りが好きで、童顔だけどなぜかセクシーな声や雰囲気が、「ただ」好きなの。それは畏怖でもなんでもない。所属する会社も、人生の捉え方も、そういうときは関係ないのに。
ただ、それがうまく伝えられない。「言葉」の限界を感じずにはいられない。苦しい。
(個人的に、早急解決を迫られる致命的な問題。)
人が人を見るとき、その人がどんなことをしているか(仕事内容、勉強内容、などなど)という事項は果たしてどれくらい重要なのだろうか。あとはどこに所属しているか。たとえば、嫌な話だが、私は恋人がもしD通に勤めていたら、「D通の人なのだわ。」というレッテルを捨てきれない。いや、捨てようと思うことはできても、そもそも捨てようと思い頑張ること自体、その概念(「この人はD通の人なのだわ」という)を既に持っているという証明であるし。
いや、まあ、いい。もう率直に書こう。私の恋人は、私の憧れていた会社にお勤めなわけだ。自分が入社できるとは思っていなかったし(現に試験も面接も受けていない)、今「入社できますよ。」と言われても、多分入らない。でも、ソレはソレとして、私はその会社に憧れていた。なんか、すごそうだったから(←めちゃ、的確な表現。今もそう思っている)。
そんな彼はあまり自分の仕事のことを話さないのだけど、夕べは酔っていたせいもあるのか珍しく饒舌で、興奮していた。で、私は就職活動をしていたせいもあるのだけど、社会人の皆様がおしなべて「偉い」ように思えてしまうのだ。どんな仕事をしているかという問題よりも、先にこれがある。「社会人」というだけで、まず「偉い」。しかも、その仕事内容が私の憧れていたものだったらなおさら。総括すると、私は彼を"リスペクト"しているのだ。
私はその"リスペクト"を彼に見せていいものかどうか、悩む。そして、夕べ、ついに見せてしまった。明かしてしまった。「尊敬してるんだからいいじゃん。」という簡単な話ではない。それこそ、私は彼にレッテルめいたものを貼り付けているのではないのか。
敢えてここに書くまでもないが、私は彼が○○社の人間だから好きになったのかといえば、断じて違う。ってか、好きになってから知った(あの瞬間惚れたのだ、と明確に言えないのだが、それにしても)。だから、彼の「どこでどんな仕事をしているか」という事項は、私がその人を好きになるかならないかには多分あまり影響していない。しかしね、実際付き合い始めるとこれは相当重要なのだ。
さらに。
「○○社の人間でこういう仕事をしている。すごいなあ。」という"リスペクト"以外に、私は彼をかなり人間として買いかぶっている傾向があるので、つまり、ダブル・"リスペクト"だ。リスペクトしまくりでどうしましょう、という。神格化しているわけではないのだが(変なこと言ったりもするし。エロだし。)、この感情を抱き続けることは彼にとって迷惑なのではないだろうか。
私も、実は、人に話すとたまに「すごーい!!」と言われたりする大学に通っている。でも、そう言われると、「ありがとう。」と言いつつ、なんか違和感を感じたり。「別にすごくないよ。浪人したし。」とか言いたくなるし、要は快か不快かでいえば、不快寄りの感情が発生する。それはなぜかといえば、私は「○○大の学生だ」という以外のアイデンティティに関して自信があるからだ。身分や肩書きを取っ払っても、残る何かがあると信じているから。だから、そこを見てほしいのだ。
じゃあ、彼に対してそれができているのですか、お嬢さん。という話になる。ええ、できていません。
仮に、彼に対して仕事や肩書きに関する"リスペクト"が消えたとしても、私は彼の考え方や人生の捉え方に深い共感を覚えるので、もう一つ存在する"リスペクト"が消えないの。男として、人間として、彼を「素敵」だと思う。でも、男と女が愛し合うときに、どれくらい「互いを敬う」意識が必要なのだろうと考えると、私は本来必要な分以上に彼を敬っているのではないか、と。「敬う」という感情は、本来よそよそしいものではないのか。だって、下民がやんごとなき人を見るとき、畏怖はすれどもその感情は愛とはほど遠いような気がするから。
そう。「畏怖」は、愛とは違う。
でも、そうじゃないの。
私は彼のふにゃ〜とした笑顔が好きで(笑うと目尻に皺ができるの)、あとは言葉選びに慎重になっているときに見せる陰りが好きで、童顔だけどなぜかセクシーな声や雰囲気が、「ただ」好きなの。それは畏怖でもなんでもない。所属する会社も、人生の捉え方も、そういうときは関係ないのに。
ただ、それがうまく伝えられない。「言葉」の限界を感じずにはいられない。苦しい。
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