みえない壁とこれからも(私信、含む。)
2005年10月9日私が、もし、親になったら。
ということを、最近真剣に想像する。(別に妊娠はしていない。)
私の場合どうやら今年「厄年」らしいが、本当に激動の年だった。今年はあと三ヶ月弱残っているから、まだ何かあるのかもしれないけど、とりあえずもういい。しかし、「厄年」というのは一般的に悪いことが起こるのだろうが、今年はいいのか悪いのか判断する暇も無いほどに、しかも後から見ると全てが表裏一体で、悪いことばかりだったとも言い切れないのだ。
父の単身赴任、就職活動、浮気、親友との喧嘩、失恋、新しい恋、などなど。そして、本来起こりうるはずもないようなスゴイ出会いが、いくつもあった。いいか悪いかは別として、とにかく色々なことがあったのだ。2005年はおそらく、私の人生の節目となる。確信がある。
「色々なことがあったから成長した。」と書くのは、おそらく愚かしい。しかし、「色々なことがあったから変わった。」となら、言ってもいい?だって、私は間違いなく、去年までの自分と"違う"。しつこいようだが、良く変わったのか悪く変わったのかはわからないし、それは私が自分で判断することではない。(でも、多分、良く変わったと思っているんだな自分は。)
ここからが本論。
これもいいか悪いかは別として、私はやはり少し「大人」になってしまったのだと思う。特に、就職活動が大きかった。そう、若年層を上から見るような視点が、自分の意識とは無関係にできてしまったのだ。これは消えない。きっと、しばらく消えない。「敬うべき大人」がいっぱいいる安全な世界だったのに、今は「見守るべき子ども」がいることに気付いてしまったのだ。私はまだ23歳で、世間的には「大人」でもあり、「子ども」でもある。でも、もう完全な「子ども」ではいられない。いてはいけない。背伸びしてそう思うのではなく、実感として、ある。
問題は、じゃあ就職活動や失恋諸々を経験する前の「ワタシ」に、今の私が感じていることを説明したところで、果たしてわかってくれるのだろうか、ということ。「ワタシ」は多分、「概念」として私の言うことを理解するだろう。でも「実感」は永遠にできないのだ。永遠に、絶対に。養老先生が"バカの壁"の存在を提唱するなら、私はこれを"子どもの壁"と言おう。
誤解しないで!子どもがバカだと言いたいのではない。ただ、そこに壁があるということ。どうしても突き破れない壁があるということ。そして、その壁を無くす方法は、壁の向こうにいる本人(子ども)が自分で武器(経験)を手にして打ち破る以外にない。そちら側(子ども側)からしか、壁は無くせないのだ。絶対にしてはいけないのは、こちら側が壁の存在を相手に教えてしまうこと。「早くこちらにおいでよ。」と言うこともいけない。壁に気付きつつも、何もしてはいけない。じゃあ、どうする?ただ見守るのみ、だ。
私の母は、私のいたらないところを23年間見守り続けてきたようだが、最近、結構腹を割って本音を見せてくれたりする。私が元カレにフラれて「彼は絶対に帰ってくるよね?ね?」とすがりついても、「人生、そんなにうまくはいかないよ。お母さんの経験上云々…」という話は一度たりともしなかった。ただ、今だからわかるのだが、母は彼が帰ってこないこと位知っていたのだと思う。そして「彼を待つもん!」と豪語する私が、彼を忘れて別の誰かを好きになることも、知っていたのだと思う。でも私が自ら気付くまで、何も言わなかった。
そうなのだ。私が子どもにできることは、ない。(ないと言いつつ、書いてしまった。これはルール違反かもしれない。)でもしばらく見守ろうとは思う。すごく、大変だと思う。きっと軌道修正してやりたくもなるし、何しろ相手は子どもだから、こちらのこんな気持ちなどまったく知らずに「ヒドイこと」をしたり言ったりするのだ。それでも腹を立ててはいけない。でも、いつかわかる。ヒドイことや理不尽なことばかり溢れているように子どもには見えるこんな世の中も、実は見えない壁の向こうで多くの人が見守っていてくれるのだ。だから、世界はそんなにヒドイものではない。それだけは知っていてほしい。
なんて、良さげなことを書いた後に、言わなくてもいいことを蛇足のようにくっつけて〆とするのが私流なのですが。
ある戦いを見て、久しぶりに子どもじみた感情を抱いた今夜、珍しく能動的になる。今日みたいな文章を書いておいてなんだが、私もまだまだ子どもだ。本来、スルーすべきである。でも言いたい。たまには熱くなるときだってあるんだ。これは独り言ではない。
どんなに言葉を連ねても、私が永遠に「美的強者」であることは否定できない。実際、私はあなたの馴染めない「イイ人間」であると思う。自分ではそう思いたくないけど、あなたがそう思うのはすごくわかる。でも、それでも、あなたのことは認めていた。いや、過去形ではない。好きか嫌いかはどこかに置いておいて、あなたのことは認めている。応援しているのだ。嘘ではない。お互いに読みつつ腹が立っているのだろうが、別に一方通行でもいい。
そう思いつつも、今日みたいな私信を書くのは、すっげぇ個人的な感情によるものなのだけどね。たしかに、たしかに、たしかに、あなたが腹が立つような文章を書いた人も悪いけども…いや、もういい。個人的な感情なのだからもういい。
悪口はやめてくれ。それだけは許さん。
ということを、最近真剣に想像する。(別に妊娠はしていない。)
私の場合どうやら今年「厄年」らしいが、本当に激動の年だった。今年はあと三ヶ月弱残っているから、まだ何かあるのかもしれないけど、とりあえずもういい。しかし、「厄年」というのは一般的に悪いことが起こるのだろうが、今年はいいのか悪いのか判断する暇も無いほどに、しかも後から見ると全てが表裏一体で、悪いことばかりだったとも言い切れないのだ。
父の単身赴任、就職活動、浮気、親友との喧嘩、失恋、新しい恋、などなど。そして、本来起こりうるはずもないようなスゴイ出会いが、いくつもあった。いいか悪いかは別として、とにかく色々なことがあったのだ。2005年はおそらく、私の人生の節目となる。確信がある。
「色々なことがあったから成長した。」と書くのは、おそらく愚かしい。しかし、「色々なことがあったから変わった。」となら、言ってもいい?だって、私は間違いなく、去年までの自分と"違う"。しつこいようだが、良く変わったのか悪く変わったのかはわからないし、それは私が自分で判断することではない。(でも、多分、良く変わったと思っているんだな自分は。)
ここからが本論。
これもいいか悪いかは別として、私はやはり少し「大人」になってしまったのだと思う。特に、就職活動が大きかった。そう、若年層を上から見るような視点が、自分の意識とは無関係にできてしまったのだ。これは消えない。きっと、しばらく消えない。「敬うべき大人」がいっぱいいる安全な世界だったのに、今は「見守るべき子ども」がいることに気付いてしまったのだ。私はまだ23歳で、世間的には「大人」でもあり、「子ども」でもある。でも、もう完全な「子ども」ではいられない。いてはいけない。背伸びしてそう思うのではなく、実感として、ある。
問題は、じゃあ就職活動や失恋諸々を経験する前の「ワタシ」に、今の私が感じていることを説明したところで、果たしてわかってくれるのだろうか、ということ。「ワタシ」は多分、「概念」として私の言うことを理解するだろう。でも「実感」は永遠にできないのだ。永遠に、絶対に。養老先生が"バカの壁"の存在を提唱するなら、私はこれを"子どもの壁"と言おう。
誤解しないで!子どもがバカだと言いたいのではない。ただ、そこに壁があるということ。どうしても突き破れない壁があるということ。そして、その壁を無くす方法は、壁の向こうにいる本人(子ども)が自分で武器(経験)を手にして打ち破る以外にない。そちら側(子ども側)からしか、壁は無くせないのだ。絶対にしてはいけないのは、こちら側が壁の存在を相手に教えてしまうこと。「早くこちらにおいでよ。」と言うこともいけない。壁に気付きつつも、何もしてはいけない。じゃあ、どうする?ただ見守るのみ、だ。
私の母は、私のいたらないところを23年間見守り続けてきたようだが、最近、結構腹を割って本音を見せてくれたりする。私が元カレにフラれて「彼は絶対に帰ってくるよね?ね?」とすがりついても、「人生、そんなにうまくはいかないよ。お母さんの経験上云々…」という話は一度たりともしなかった。ただ、今だからわかるのだが、母は彼が帰ってこないこと位知っていたのだと思う。そして「彼を待つもん!」と豪語する私が、彼を忘れて別の誰かを好きになることも、知っていたのだと思う。でも私が自ら気付くまで、何も言わなかった。
そうなのだ。私が子どもにできることは、ない。(ないと言いつつ、書いてしまった。これはルール違反かもしれない。)でもしばらく見守ろうとは思う。すごく、大変だと思う。きっと軌道修正してやりたくもなるし、何しろ相手は子どもだから、こちらのこんな気持ちなどまったく知らずに「ヒドイこと」をしたり言ったりするのだ。それでも腹を立ててはいけない。でも、いつかわかる。ヒドイことや理不尽なことばかり溢れているように子どもには見えるこんな世の中も、実は見えない壁の向こうで多くの人が見守っていてくれるのだ。だから、世界はそんなにヒドイものではない。それだけは知っていてほしい。
なんて、良さげなことを書いた後に、言わなくてもいいことを蛇足のようにくっつけて〆とするのが私流なのですが。
ある戦いを見て、久しぶりに子どもじみた感情を抱いた今夜、珍しく能動的になる。今日みたいな文章を書いておいてなんだが、私もまだまだ子どもだ。本来、スルーすべきである。でも言いたい。たまには熱くなるときだってあるんだ。これは独り言ではない。
どんなに言葉を連ねても、私が永遠に「美的強者」であることは否定できない。実際、私はあなたの馴染めない「イイ人間」であると思う。自分ではそう思いたくないけど、あなたがそう思うのはすごくわかる。でも、それでも、あなたのことは認めていた。いや、過去形ではない。好きか嫌いかはどこかに置いておいて、あなたのことは認めている。応援しているのだ。嘘ではない。お互いに読みつつ腹が立っているのだろうが、別に一方通行でもいい。
そう思いつつも、今日みたいな私信を書くのは、すっげぇ個人的な感情によるものなのだけどね。たしかに、たしかに、たしかに、あなたが腹が立つような文章を書いた人も悪いけども…いや、もういい。個人的な感情なのだからもういい。
悪口はやめてくれ。それだけは許さん。
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