利己的な遺伝子
2005年10月10日「俺がおまえを守るから。」と言われて、嬉しくない女がいるだろうか。
(貴女がそうなら、この文章を読まない方がいい。)
じゃあ、「私が貴男を守るから。」と言われたとき、男の人ははたしてどういう感情を抱くのだろうか。というのが、今、かなり気になるところ。
「人が人を守る」ということについて、少し考えてみよう。そもそも、誰かを全力で守らなければいけない状況なんてそうそう無いような気がするのだが、どうだろうか。たとえば、私が悪の組織から命を狙われている伝説の一族の末裔とかだったら、恋人が私を剣林弾雨から守るという状況もなくはない、だろう。否。物語でもあるまいし。時は平成だし、ここは日本なのである。
「帰り道は暗くて危険だから送っていくよ。」くらいの"守り"なら、まあ今もある。実際、夜道は危険だ。しかしこれはあくまでも男性→女性の話に限定される。じゃあ、女性が必死になって大切な男性を守るという場面は、この時代、この国のどこにある?という話になるのだ。(まあ、たまには女性の方が肉体的に強靱で、逆に男性を守った方がいいケースもあるのかもしれないけど。)
しかし、私は気付いたのだ。何も「身体的・肉体的に危険な状況」に限定する必要はないのだと。そして、「守る」という行為が、有事の際にのみ認められるのでは必ずしもないということにも。
わかり辛いだろうか。つまりね、実際に危険な状況(誰かに襲われるとか)じゃなくても、「人が人を守る」ことは可能だということ。そして、「守るモード」でスタンバイしてさえいれば、実際に襲われることがなくても十分誰かを守っている状態なのだ、と。行動としてではなく、状態として「守る」を捉えればいいのだね。「守る」という行為は、(あくまでも私の中で)「大切な人の背中を後ろから見つめる」に近いものがある。実際に火の粉が飛んできたら、すぐに教えてあげられるようにね。本当に火の粉が飛んでこなくても、私はきっとそのとき、誰かを守っている。
さて、話はここで終わりかと思いきや。「守る」という行為は一見素敵で尊いことのように捉えられがちだが、実はそうでもない。ということが、今日一番言いたかったこと。「守る」って、なんてエゴイスティックな行為なのだろう、と。
誰かを守りたいと思うとき、そのとき、その人は確実にエゴイストになっている。一番わかりやすい例を挙げれば、母親が乳飲み子を抱いて逃げまどうとき、どんな犠牲を払ってもその子を守るだろう。その子が世間的に見て「守られるべきもの」かどうかは一切関係ない。単に、自分にとって大切だからだ。自分にとって大切かどうかに正当な理由は必要ない。ただ、「大切」だから。これほどエゴイスティックなことはないよ。その乳飲み子のために誰かの命を奪うことだって、十分ある。「ただなんとなく大切」な人のために、不公平に他人を傷つけるのだ。
もう一つ例を挙げるか。たとえば、私が母親だとして、自分の「大切」な息子が、よせばいいのに自分より年少の子を「年上のロンリ」で責め立て泣かせたとしよう。年少の子が息子に噛みついたって、まあしょうがないではないか。公平に見て、悪いのはたぶん私の息子である。オマエが悪い!お兄ちゃんでしょ!と私は息子を叱るべきかもしれない。でも、私は多分、息子を守る。だって、「大切」だから。ひどいよね。ごっつ不公平だよね。公平さの欠片もないよね。でも、そういうことなのだ多分。誰かを「守る」ということは、そういうこと。とてもエゴイスティックなこと。
「あんた大人げないよ。」と批判されることなど、承知の上である。ただ、私は「大切」な人が「ダサい」などという言葉で批判されることが、我慢できない。ただ、嫌。それだけである。そういうときも真なる公平さを持ちつつ傍観できるもしくは無視できる人が、私のなりたい「素敵な大人の女性」ならば、そんなものにはなりたくないし、エゴイスティックな自分の方が好きである。
誤解しないでほしい。私は大人ではない。ただ、エゴなだけ。
(貴女がそうなら、この文章を読まない方がいい。)
じゃあ、「私が貴男を守るから。」と言われたとき、男の人ははたしてどういう感情を抱くのだろうか。というのが、今、かなり気になるところ。
「人が人を守る」ということについて、少し考えてみよう。そもそも、誰かを全力で守らなければいけない状況なんてそうそう無いような気がするのだが、どうだろうか。たとえば、私が悪の組織から命を狙われている伝説の一族の末裔とかだったら、恋人が私を剣林弾雨から守るという状況もなくはない、だろう。否。物語でもあるまいし。時は平成だし、ここは日本なのである。
「帰り道は暗くて危険だから送っていくよ。」くらいの"守り"なら、まあ今もある。実際、夜道は危険だ。しかしこれはあくまでも男性→女性の話に限定される。じゃあ、女性が必死になって大切な男性を守るという場面は、この時代、この国のどこにある?という話になるのだ。(まあ、たまには女性の方が肉体的に強靱で、逆に男性を守った方がいいケースもあるのかもしれないけど。)
しかし、私は気付いたのだ。何も「身体的・肉体的に危険な状況」に限定する必要はないのだと。そして、「守る」という行為が、有事の際にのみ認められるのでは必ずしもないということにも。
わかり辛いだろうか。つまりね、実際に危険な状況(誰かに襲われるとか)じゃなくても、「人が人を守る」ことは可能だということ。そして、「守るモード」でスタンバイしてさえいれば、実際に襲われることがなくても十分誰かを守っている状態なのだ、と。行動としてではなく、状態として「守る」を捉えればいいのだね。「守る」という行為は、(あくまでも私の中で)「大切な人の背中を後ろから見つめる」に近いものがある。実際に火の粉が飛んできたら、すぐに教えてあげられるようにね。本当に火の粉が飛んでこなくても、私はきっとそのとき、誰かを守っている。
さて、話はここで終わりかと思いきや。「守る」という行為は一見素敵で尊いことのように捉えられがちだが、実はそうでもない。ということが、今日一番言いたかったこと。「守る」って、なんてエゴイスティックな行為なのだろう、と。
誰かを守りたいと思うとき、そのとき、その人は確実にエゴイストになっている。一番わかりやすい例を挙げれば、母親が乳飲み子を抱いて逃げまどうとき、どんな犠牲を払ってもその子を守るだろう。その子が世間的に見て「守られるべきもの」かどうかは一切関係ない。単に、自分にとって大切だからだ。自分にとって大切かどうかに正当な理由は必要ない。ただ、「大切」だから。これほどエゴイスティックなことはないよ。その乳飲み子のために誰かの命を奪うことだって、十分ある。「ただなんとなく大切」な人のために、不公平に他人を傷つけるのだ。
もう一つ例を挙げるか。たとえば、私が母親だとして、自分の「大切」な息子が、よせばいいのに自分より年少の子を「年上のロンリ」で責め立て泣かせたとしよう。年少の子が息子に噛みついたって、まあしょうがないではないか。公平に見て、悪いのはたぶん私の息子である。オマエが悪い!お兄ちゃんでしょ!と私は息子を叱るべきかもしれない。でも、私は多分、息子を守る。だって、「大切」だから。ひどいよね。ごっつ不公平だよね。公平さの欠片もないよね。でも、そういうことなのだ多分。誰かを「守る」ということは、そういうこと。とてもエゴイスティックなこと。
「あんた大人げないよ。」と批判されることなど、承知の上である。ただ、私は「大切」な人が「ダサい」などという言葉で批判されることが、我慢できない。ただ、嫌。それだけである。そういうときも真なる公平さを持ちつつ傍観できるもしくは無視できる人が、私のなりたい「素敵な大人の女性」ならば、そんなものにはなりたくないし、エゴイスティックな自分の方が好きである。
誤解しないでほしい。私は大人ではない。ただ、エゴなだけ。
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