ことばにできない気持ちは今の気持ち
2005年10月12日BLOGを始めて良かったと思っている。
理由はひとつではない。知っている人は知っているだろうが、まあ、とにかく色々と恩恵があったのだ。ただ、その中にもひとつだけ(今のところひとつだけ思い当たる)もしかしたら恩恵ではなく、弊害かもしれないことがあって。
就職活動を経て「理屈っぽくなったね。」と言われるようになったと以前書いたが、そのときはまだ「私は理屈っぽいのかもしれないなあ…」程度にしか考えていなかった。しかし、確信した。私はやはり「理屈っぽい」のだ。断定したい。理屈っぽく、理論的で、いつでも左脳で世の中を見ている。世の中の全てのことに秩序を見いだそうとしている。世の中の全てのことを「言語」で理解しようとしている。BLOGを綴るようになって、それらは加速化した。
この前の休みの日に、「ある人」と現代アートを観に行った。
この「ある人」は非常に頭が良い(と、私は勝手に思っている)。最近、この人と話していると、「ああ、頭が良いことと理屈っぽいことは違うのだ。」と気付くことになるのだ。たとえば、私は美術館で絵を見るときも、その絵の中に自分なりの秩序を見いだそうとしてしまう。どんなメタファがあるのだろう、とか。とにかく何かしらの意味付けをしたくなってしまうのだ。
一方、私と同じように理屈っぽく見える「ある人」は、多分、"ただ" 絵を見ている。美しい絵は、"ただ" そこにあればいいのだ。なんとなく見て、なんとなくいいなあと思う。それでいいじゃんか、と思っているのが私には伝わった。(余談だが、この「ある人」と私は、世にも稀な位に価値観が似ている。私たちは生き別れの兄妹ではないかとさえ思ったことがある。そう、たしかに私たちは、同じ材料を与えられれば同じ料理を作るのだろうが、それでも調理方法は若干異なる。最終的に同じ皿を持って同じテーブルにつくのだとしても、調理中はきっと背中を合わせて別の方角を見ている。)
私が、「ある人」と違うなと思うのはこういうところ。私は物事を「言語」に変換してから考える。まず、左脳を通すのだ。「ある人」は感覚で受けとめてから「言語」にする。まず、右脳を通しているのだ。実際に目で見たような言い方で恐縮だが、多分そう。そして、この「まず左脳を通す人」(私のことね)というのは概ね理屈っぽい。この世の全てのものが完全なる秩序に従っていて、それらが全て言語化できるはずなどないではないか。でも、私はその思考パターンから逃れられない。全部をBLOGのせいにするつもりはないが。
相手がこちらを愛しいと思っていて、その理由を問うたとき。「血中から神経伝達物質セロトニンの働きを助ける蛋白質が減少しているからだよ。」と答えられたら、引くでしょう?でも、私が行っているのは、それに近い行為だ。「なんとなく好き」としか言えない気持ちはある。
しかし、私はそれを放置できない。どうして好きなのかを考えてしまう。だから、思っていることをうまく言葉にできない人たちの気持ちを、たまに傷つけてしまう。彼らから「なんとなく辛い」という気持ちを打ち明けられても、なんとなく辛くなくなるまで"ただ"そばにいてあげることができない。なんとなくとしか言えない気持ちを、自分勝手に言語化してムリヤリなアドバイスを与えて、自己満足に浸ってしまうのだ。
秩序から解放される日はくるのだろうか。(こう書くと、すごく他人本位だな。)
今は、私の周りにいる人たちが「理屈っぽい」私から離れていってしまわないか、それが怖い。この思考パターンが当分変わらないとしても、少し努力せねばなるまい。そのためには、「言葉」にするのをまずやめよう。最初に、見てから。まず、浸透させてから。そして、それから悩んでいる相手と一緒に考えるようにしていこう。言葉にするのが早すぎるのだ。
今日、悩んでいる私の元に、仕事中の「ある人」からメールが届いた。
美術館に一緒に行った日に私が話したことを、彼は覚えていた。そして、こんな私のために昔読んだという本を紹介してくれた。『ことばと国家』(岩波新書)と、『右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界』(小学館ライブラリー)の二冊である。追伸のように添えられた一文を読んで、つい涙が出そうになる。「キミといると、こっちの、すっかり忘れてしまった「勉強意欲」が刺激されてしまうのです。」とのこと。それは、こんな私でもいいということ?
「理屈っぽい」私が、彼に与えている影響のいいものたらんことを。そう願うしかないよね。うん。私はがんばるよ。
理由はひとつではない。知っている人は知っているだろうが、まあ、とにかく色々と恩恵があったのだ。ただ、その中にもひとつだけ(今のところひとつだけ思い当たる)もしかしたら恩恵ではなく、弊害かもしれないことがあって。
就職活動を経て「理屈っぽくなったね。」と言われるようになったと以前書いたが、そのときはまだ「私は理屈っぽいのかもしれないなあ…」程度にしか考えていなかった。しかし、確信した。私はやはり「理屈っぽい」のだ。断定したい。理屈っぽく、理論的で、いつでも左脳で世の中を見ている。世の中の全てのことに秩序を見いだそうとしている。世の中の全てのことを「言語」で理解しようとしている。BLOGを綴るようになって、それらは加速化した。
この前の休みの日に、「ある人」と現代アートを観に行った。
この「ある人」は非常に頭が良い(と、私は勝手に思っている)。最近、この人と話していると、「ああ、頭が良いことと理屈っぽいことは違うのだ。」と気付くことになるのだ。たとえば、私は美術館で絵を見るときも、その絵の中に自分なりの秩序を見いだそうとしてしまう。どんなメタファがあるのだろう、とか。とにかく何かしらの意味付けをしたくなってしまうのだ。
一方、私と同じように理屈っぽく見える「ある人」は、多分、"ただ" 絵を見ている。美しい絵は、"ただ" そこにあればいいのだ。なんとなく見て、なんとなくいいなあと思う。それでいいじゃんか、と思っているのが私には伝わった。(余談だが、この「ある人」と私は、世にも稀な位に価値観が似ている。私たちは生き別れの兄妹ではないかとさえ思ったことがある。そう、たしかに私たちは、同じ材料を与えられれば同じ料理を作るのだろうが、それでも調理方法は若干異なる。最終的に同じ皿を持って同じテーブルにつくのだとしても、調理中はきっと背中を合わせて別の方角を見ている。)
私が、「ある人」と違うなと思うのはこういうところ。私は物事を「言語」に変換してから考える。まず、左脳を通すのだ。「ある人」は感覚で受けとめてから「言語」にする。まず、右脳を通しているのだ。実際に目で見たような言い方で恐縮だが、多分そう。そして、この「まず左脳を通す人」(私のことね)というのは概ね理屈っぽい。この世の全てのものが完全なる秩序に従っていて、それらが全て言語化できるはずなどないではないか。でも、私はその思考パターンから逃れられない。全部をBLOGのせいにするつもりはないが。
相手がこちらを愛しいと思っていて、その理由を問うたとき。「血中から神経伝達物質セロトニンの働きを助ける蛋白質が減少しているからだよ。」と答えられたら、引くでしょう?でも、私が行っているのは、それに近い行為だ。「なんとなく好き」としか言えない気持ちはある。
しかし、私はそれを放置できない。どうして好きなのかを考えてしまう。だから、思っていることをうまく言葉にできない人たちの気持ちを、たまに傷つけてしまう。彼らから「なんとなく辛い」という気持ちを打ち明けられても、なんとなく辛くなくなるまで"ただ"そばにいてあげることができない。なんとなくとしか言えない気持ちを、自分勝手に言語化してムリヤリなアドバイスを与えて、自己満足に浸ってしまうのだ。
秩序から解放される日はくるのだろうか。(こう書くと、すごく他人本位だな。)
今は、私の周りにいる人たちが「理屈っぽい」私から離れていってしまわないか、それが怖い。この思考パターンが当分変わらないとしても、少し努力せねばなるまい。そのためには、「言葉」にするのをまずやめよう。最初に、見てから。まず、浸透させてから。そして、それから悩んでいる相手と一緒に考えるようにしていこう。言葉にするのが早すぎるのだ。
今日、悩んでいる私の元に、仕事中の「ある人」からメールが届いた。
美術館に一緒に行った日に私が話したことを、彼は覚えていた。そして、こんな私のために昔読んだという本を紹介してくれた。『ことばと国家』(岩波新書)と、『右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界』(小学館ライブラリー)の二冊である。追伸のように添えられた一文を読んで、つい涙が出そうになる。「キミといると、こっちの、すっかり忘れてしまった「勉強意欲」が刺激されてしまうのです。」とのこと。それは、こんな私でもいいということ?
「理屈っぽい」私が、彼に与えている影響のいいものたらんことを。そう願うしかないよね。うん。私はがんばるよ。
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