Too too too late to say to me "I love you".
2005年10月14日天高く馬肥ゆるこの時期。
卒業論文のために、普段読まないような本ばかり読んでいる。おかげで私の頭は高速回転しっぱなしである。ところで今読んでいるのは、アメリカの建国史に関する文献。はっきり言ってつまらない。しかし、思わず「おおっ」と思う瞬間もあって。ちなみに「おおっ」と思ったのは、以下の記述を読んだとき。
1620年末に分離派ピューリタンの一行がメイフラワー号から
上陸した時、その土地は「空地」だった。
それは先住民のパクセント族が、三年前にニューイングランド
海岸地方一帯を襲った伝染病によって絶滅してしまったからである。
(中略)ただ、「神が伝染病を遣わして、われらの行く手を清掃
し給うた」ことに感謝の祈りを捧げるだけでよかった。
いや、普段、こんな堅苦しい文章を読んでも「おおっ」と思うことなんて無いのだが。というのも、これはいわゆるアメリカの「マニフェスト・デスティニー」思想が如実に顕れている一文なのだ。自分にとって都合のいいことを、すぐに「神の定めた運命」として受けとめるのだね。運命… 運命…
そうか!運命だあああああ!!!バサッ!(←文献を投げ出した音)
私は「運命」を信じる。
「自分の力で運命を切り開くのだ。神に決定などされてたまるか!」と鼻息荒く否定するお方もいるだろう。でも私から言わせてもらうと、その「自分の力で切り開く」ことが既にプログラミングされているのではないか、と。誤解してほしくないが、私は何もアメリカが新大陸を支配したことが「運命」だと言いたいのではない。単に、「運命」それ自体について、考察したいだけだ。
しかし。アメリカの人々が(たぶん。たぶんね。アメリカの人には言わないでね。)たぶん間違っているように、それは「運命」ではない。みんなもそう思うでしょ?ごっつ自分たち中心の解釈である。たまたまこの話はスケールが大きいから、「いや、違うでしょ。」とわかったけど、たとえば誰にも迷惑かけない自分だけの問題だったら、私は結構これに似た「自分中心解釈主義」かもしれない。だって、「運命」と信じた方が素敵なんだもの。
元カレに「オマエ以外に好きな人ができた。」と告げられたとき、私は「私とカレはこうして一度離れてみて、それからうまくやり直すはずだ。」と、目の前の事実を自分勝手に「運命」付けた。カレが私を捨てる→後悔する→戻ってくる、という事実は事実として何ら変わらなくても、私はもはやこれを「運命」とは思えない。少し、遅かった。だから、私もアメリカと同じくやはり残酷な「自分中心解釈主義」なのだ。アメリカの先住民も、元カレも、納得いかないかもしれない。でも、カレが私を捨てる→後悔する→戻ってくる、という運命は、既に「明らかな運命」ではない。今は、カレが私を捨てる→私は悲しむ→別の誰かのために成長する、という新しい「運命」にすり替わっているのだ。
「運命」は、自分勝手な認識の産物。でも、それでいいじゃんか。誰になんと言われても、たとえ先住民に文句を言われても、絶対に曲げられないものが私にはあるんだ。
卒業論文のために、普段読まないような本ばかり読んでいる。おかげで私の頭は高速回転しっぱなしである。ところで今読んでいるのは、アメリカの建国史に関する文献。はっきり言ってつまらない。しかし、思わず「おおっ」と思う瞬間もあって。ちなみに「おおっ」と思ったのは、以下の記述を読んだとき。
1620年末に分離派ピューリタンの一行がメイフラワー号から
上陸した時、その土地は「空地」だった。
それは先住民のパクセント族が、三年前にニューイングランド
海岸地方一帯を襲った伝染病によって絶滅してしまったからである。
(中略)ただ、「神が伝染病を遣わして、われらの行く手を清掃
し給うた」ことに感謝の祈りを捧げるだけでよかった。
いや、普段、こんな堅苦しい文章を読んでも「おおっ」と思うことなんて無いのだが。というのも、これはいわゆるアメリカの「マニフェスト・デスティニー」思想が如実に顕れている一文なのだ。自分にとって都合のいいことを、すぐに「神の定めた運命」として受けとめるのだね。運命… 運命…
そうか!運命だあああああ!!!バサッ!(←文献を投げ出した音)
私は「運命」を信じる。
「自分の力で運命を切り開くのだ。神に決定などされてたまるか!」と鼻息荒く否定するお方もいるだろう。でも私から言わせてもらうと、その「自分の力で切り開く」ことが既にプログラミングされているのではないか、と。誤解してほしくないが、私は何もアメリカが新大陸を支配したことが「運命」だと言いたいのではない。単に、「運命」それ自体について、考察したいだけだ。
しかし。アメリカの人々が(たぶん。たぶんね。アメリカの人には言わないでね。)たぶん間違っているように、それは「運命」ではない。みんなもそう思うでしょ?ごっつ自分たち中心の解釈である。たまたまこの話はスケールが大きいから、「いや、違うでしょ。」とわかったけど、たとえば誰にも迷惑かけない自分だけの問題だったら、私は結構これに似た「自分中心解釈主義」かもしれない。だって、「運命」と信じた方が素敵なんだもの。
元カレに「オマエ以外に好きな人ができた。」と告げられたとき、私は「私とカレはこうして一度離れてみて、それからうまくやり直すはずだ。」と、目の前の事実を自分勝手に「運命」付けた。カレが私を捨てる→後悔する→戻ってくる、という事実は事実として何ら変わらなくても、私はもはやこれを「運命」とは思えない。少し、遅かった。だから、私もアメリカと同じくやはり残酷な「自分中心解釈主義」なのだ。アメリカの先住民も、元カレも、納得いかないかもしれない。でも、カレが私を捨てる→後悔する→戻ってくる、という運命は、既に「明らかな運命」ではない。今は、カレが私を捨てる→私は悲しむ→別の誰かのために成長する、という新しい「運命」にすり替わっているのだ。
「運命」は、自分勝手な認識の産物。でも、それでいいじゃんか。誰になんと言われても、たとえ先住民に文句を言われても、絶対に曲げられないものが私にはあるんだ。
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