食らわば皿まで
2005年10月22日食べ物って、本当に「おいしい」ものだと思う。
何も高い食材でなくていい。夕食に関してなら、私は極端に外食率が低い。だから毎日特に美味しいものを食べているとはいえないが、それでも、最近、食べ物が「おいしい」。
それとも関連するような気がするが、世界がとても美しく見えるのだ。どんよりする内容のテレビニュースでも、噛み砕いて理解しようと努めると、とても「おもしろい」。つまらない卒業論文用の文献も、知らない世界がわかって「たのしい」。眠ろうと思って布団に入ると、これからやってくる安息への期待が高まって、「きもちよい」。外から入ってくるモノたちは、本質的には今までとまったく変わらないのに。それを受信する側の私が、すべてに対してとても敏感になっているのだろうか。
たとえば。たまーに外食をすると、私の食べたことのないような料理がある。飲んだことのないようなお酒がある。(余談だが、私はまだ食べたことのないものが結構ある。)で、何しろ味をよく知らないから食べる前は不安なの。好き嫌いはそんなに無いが、「これは本来あまり好きじゃないな。」とおそらく思うはずの味でも、なんか「おいしい」のだ。うまく説明できる感覚ではない。
そういうとき、私は「おいしー!」としか言えない。くうぅ…と唸ってしまうときもある。だって、「おいしい」から。特に、最近飲むようになった日本酒など、本当に心の底から「おいしい」と思う。なんで今まで飲めなかったのか理由もわからないほど、舌に沁みてじわーっと温かくなって、胃に流れ込む頃には私はとても「しあわせ」な気持ちになる。ワインも同じである。初めて口に入れるものが新鮮で、それで興奮しているとかではない。なぜなら、きっと半年前に同じものを食べても、ここまで「おいしい」とは思わなかったであろう自信があるから。
私は「味わう」ことを知らなかったのだろうか?その食材の本来の美味しさが、仮に85だとするなら、私は今まで40くらいしか味わえてなかったのではないか。理由はわからない。とにかく、今は85のギリギリまで味わえている気がする。たとえ、その食材が18程度で本来あまり美味しいものではなくても、限界の18まで全部味わい尽くせるなら、それで満足なのである。
何を見ても「おいしい」し、「たのしい」し、「きもちいい」のだ。だから、私を取り囲む状況が今までと何も変わらなくても、色々なことを吸収するのにとても忙しくて、毎日目が回りそうなのだ。物事は、ただそこにあるだけでかまわない。新しいものでなくてもいいし、珍しいものでなくてもいい。私がそれらの端々まで舐め尽くせばいいだけの話だ。言語化を忘れて「味わう」喜びというのが、少しわかったような気がする。
10しかないものを捨てて、80のものを求めても仕方ない。たとえ、そのものの本質が10しかなくても、10を10だけ味わおう。得たものの総量ではなく、達成率に限れば、私はきっと今誰よりも世界を美味と思っている。
何も高い食材でなくていい。夕食に関してなら、私は極端に外食率が低い。だから毎日特に美味しいものを食べているとはいえないが、それでも、最近、食べ物が「おいしい」。
それとも関連するような気がするが、世界がとても美しく見えるのだ。どんよりする内容のテレビニュースでも、噛み砕いて理解しようと努めると、とても「おもしろい」。つまらない卒業論文用の文献も、知らない世界がわかって「たのしい」。眠ろうと思って布団に入ると、これからやってくる安息への期待が高まって、「きもちよい」。外から入ってくるモノたちは、本質的には今までとまったく変わらないのに。それを受信する側の私が、すべてに対してとても敏感になっているのだろうか。
たとえば。たまーに外食をすると、私の食べたことのないような料理がある。飲んだことのないようなお酒がある。(余談だが、私はまだ食べたことのないものが結構ある。)で、何しろ味をよく知らないから食べる前は不安なの。好き嫌いはそんなに無いが、「これは本来あまり好きじゃないな。」とおそらく思うはずの味でも、なんか「おいしい」のだ。うまく説明できる感覚ではない。
そういうとき、私は「おいしー!」としか言えない。くうぅ…と唸ってしまうときもある。だって、「おいしい」から。特に、最近飲むようになった日本酒など、本当に心の底から「おいしい」と思う。なんで今まで飲めなかったのか理由もわからないほど、舌に沁みてじわーっと温かくなって、胃に流れ込む頃には私はとても「しあわせ」な気持ちになる。ワインも同じである。初めて口に入れるものが新鮮で、それで興奮しているとかではない。なぜなら、きっと半年前に同じものを食べても、ここまで「おいしい」とは思わなかったであろう自信があるから。
私は「味わう」ことを知らなかったのだろうか?その食材の本来の美味しさが、仮に85だとするなら、私は今まで40くらいしか味わえてなかったのではないか。理由はわからない。とにかく、今は85のギリギリまで味わえている気がする。たとえ、その食材が18程度で本来あまり美味しいものではなくても、限界の18まで全部味わい尽くせるなら、それで満足なのである。
何を見ても「おいしい」し、「たのしい」し、「きもちいい」のだ。だから、私を取り囲む状況が今までと何も変わらなくても、色々なことを吸収するのにとても忙しくて、毎日目が回りそうなのだ。物事は、ただそこにあるだけでかまわない。新しいものでなくてもいいし、珍しいものでなくてもいい。私がそれらの端々まで舐め尽くせばいいだけの話だ。言語化を忘れて「味わう」喜びというのが、少しわかったような気がする。
10しかないものを捨てて、80のものを求めても仕方ない。たとえ、そのものの本質が10しかなくても、10を10だけ味わおう。得たものの総量ではなく、達成率に限れば、私はきっと今誰よりも世界を美味と思っている。
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