解放の気配がする
2005年10月24日ごくごく控えめに書かせていただくが、ディズニーランドがちょっとばかし嫌いである。
特に、男性とサシでランドに行くとか、私の中では本当にあり得ない。「嫌だ」ではなく、「できない」のだ。ついでに言うなら、男性とサシでカラオケに行くのも辛い。ゲームセンターに行くのも辛い(プリクラなんて、もってのほかである。いや、昔は撮ってたけどさ)。
これ、実は昔からの悩み。デートが「恥ずかしい」のである。で、なんでなのだろうと考えていたのだが、仮説ではあるけれど理由は判明している。私は多分、「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」が好きになれないのだと思う。その施設で、制作者の意図通りまんまと喜んでいる自分を目の当たりにするのが、「恥ずかしい」のだ。はしゃぐ自分が「恥ずかしい」。興じる自分を、もう一人の冷静な自分が見てしまうのだ。
それでも、自分の恥ずかしさだけならまだなんとかできる。なぜ男性と一緒に行きたくないのかというと、私にとって「はしゃぐべきではない男性」が、そういう施設で私以上にはしゃいでいたらどうしよう、という恐怖があるからだ。それこそ、極上のさわやかスマイルにこれまた極上のさわやかヴォイスで「りん、俺とディズニーランド行こうぜ☆」なんて誘われたら、私は本当に困ってしまう。どうも、多くの男性は私たち女性がおしなべてディズニーランドを愛していると思ってらっしゃるようで、多分その読みは正しい。だが、私に関しては当てはまらないのである。
数多の「ディズニーランド行こうぜ☆」攻撃に対して。銃弾の嵐の中を致命傷を負いながら生還してきたつもりだが(皆さん、本当にすみませんでした…)、この恥ずかしがり性質は、今後なんとかすべきだと心底思う。ディズニーランドだけならかわしようがあるものの、前述の「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」というのは本当に多く、それこそ飲食店のすべては広い意味でこれに該当する。そうなると、本当にどこにも行けないではないか。
私は、システマティックな状況というのが、多分恐い。「こうして、こうして、こう楽しむべき。」と既に決められている状況で、なんらかの事情でそれに乗れない自分たちを想像するのが恐い。
わかりやすい例を出すと、初めて訪れる飲食店に入店した瞬間。リピーターたちがごく自然に楽しんでいる中、自分たちはまず料理の注文方法を考えねばならない。「この店は大皿で一つ頼んで分け合うのか?」とか「コースは一応あるけどアラカルトにするのがツウなのか?」とか、色々考えて結局選択した手段が、いまいちその店のシステムに馴染んでいなかったと判明したとき。ううう…恥ずかしい…。「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」というのは、多くの場合、システマティックなものなのだ。そして、私が頼りにしている男性がシステムに乗れない様を見るのが、多分恥ずかしい。なんとかしてくれ、この性分。
ただね、これは一生直らないのかなーと思ってはいたが、今日(本当に今日)、ハッと気付いたことがあるので、ちょっと聞いてほしい。
たとえば、そういうシステマティックな状況でも、本当の「大人の男性」ならわからないときは店員さんに聞くのである。「これはどういうもんですかね?」なんて、ジェントリーに、自分たちがわからない人たちであることを明かすのだ。何が一番恥ずかしいかって、自分たちがわからないのに無理してわかっているフリをして、結局失敗すること。でも、「なんかよくわからないね。」って素直に同意を求められると、私は恥ずかしくなくなる。
この性質を話すと、「めんどくさい女だな。素直に楽しめよ。」と思われることはわかっているから、23年間内緒にしてきた。人に「恥ずかしがっている自分」を知られるのが怖かった。
でも私は確信しているが、多分、近々色々なことが恥ずかしくなくなると思う。一皮剥けた。たとえシステマティックな状況でも、「ま、とりあえず堂々としてようぜ。楽しめばいいじゃん。ほら、楽しいだろ?」って自然に(ほんとに自然に)思わせてくれる男性が、私を色々なところに連れていってくれるから。そして、私が恥ずかしさをもてあましている状態を、すごく大きな「余裕」で包んでくれているのを感じるから。徐々に免疫ができつつあるの。ほんとだよ。
私は、かつての私から解放されたいとずっと思っていた。この恥ずかしがり性質からも。信じてもらえなくてもいいが、きっと大丈夫だと思う。
んが。しかし。
そうはいっても、ディズニーランドには行けない。うん。最近よく遊びに行く人は、さわやかではあるが「ディズニーランド行こうぜ☆」と自分から言い出すことはまず無いと思われるので、それだけは本当によかったと思う。
さて。来週はどこに行こうか。
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備忘。
●本日、免許更新。
初の更新。
初回の講習は2時間だと聞いて、思わず県警に殺意を抱く。
ニュー免許証の写真は実物より良く撮れていて、大満足。
●俵万智の『あなたと読む恋の歌 百首』(朝日新聞社)読了。
誰も知らないだろうけど、私は短歌好き。俳句じゃなく短歌。
印象に残った歌が何首か。
"唇をよせて言葉を放てどもわたしとあなたはわたしとあなた"(阿木津 英)
"洋服の裏側はどんな宇宙かと脱ぎ捨てられた背広に触れる"(永井陽子)
"一度にわれを咲かせるようにくちづけるベンチに厚き本を落として"(梅内美華子)
"私をジャムにしたならどのような香りが立つかブラウスを脱ぐ"(河野小百合)
…エロい。エロ過ぎる。
官能小説なんて目じゃない大和の楚々としたエロさが、たった三十一文字に凝縮されている。(なんて素晴らしいんだ!)
たまに自分でも「この気持ちをどうしたらいいの?」と持てあまして胸が震える瞬間があるが、短歌や詩を読むと、自分だけのものだと思っていた感覚の多くが、先人たちのなぞらえであるとわかる。
ますます、詩人(歌人)になりたくなった。
特に、男性とサシでランドに行くとか、私の中では本当にあり得ない。「嫌だ」ではなく、「できない」のだ。ついでに言うなら、男性とサシでカラオケに行くのも辛い。ゲームセンターに行くのも辛い(プリクラなんて、もってのほかである。いや、昔は撮ってたけどさ)。
これ、実は昔からの悩み。デートが「恥ずかしい」のである。で、なんでなのだろうと考えていたのだが、仮説ではあるけれど理由は判明している。私は多分、「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」が好きになれないのだと思う。その施設で、制作者の意図通りまんまと喜んでいる自分を目の当たりにするのが、「恥ずかしい」のだ。はしゃぐ自分が「恥ずかしい」。興じる自分を、もう一人の冷静な自分が見てしまうのだ。
それでも、自分の恥ずかしさだけならまだなんとかできる。なぜ男性と一緒に行きたくないのかというと、私にとって「はしゃぐべきではない男性」が、そういう施設で私以上にはしゃいでいたらどうしよう、という恐怖があるからだ。それこそ、極上のさわやかスマイルにこれまた極上のさわやかヴォイスで「りん、俺とディズニーランド行こうぜ☆」なんて誘われたら、私は本当に困ってしまう。どうも、多くの男性は私たち女性がおしなべてディズニーランドを愛していると思ってらっしゃるようで、多分その読みは正しい。だが、私に関しては当てはまらないのである。
数多の「ディズニーランド行こうぜ☆」攻撃に対して。銃弾の嵐の中を致命傷を負いながら生還してきたつもりだが(皆さん、本当にすみませんでした…)、この恥ずかしがり性質は、今後なんとかすべきだと心底思う。ディズニーランドだけならかわしようがあるものの、前述の「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」というのは本当に多く、それこそ飲食店のすべては広い意味でこれに該当する。そうなると、本当にどこにも行けないではないか。
私は、システマティックな状況というのが、多分恐い。「こうして、こうして、こう楽しむべき。」と既に決められている状況で、なんらかの事情でそれに乗れない自分たちを想像するのが恐い。
わかりやすい例を出すと、初めて訪れる飲食店に入店した瞬間。リピーターたちがごく自然に楽しんでいる中、自分たちはまず料理の注文方法を考えねばならない。「この店は大皿で一つ頼んで分け合うのか?」とか「コースは一応あるけどアラカルトにするのがツウなのか?」とか、色々考えて結局選択した手段が、いまいちその店のシステムに馴染んでいなかったと判明したとき。ううう…恥ずかしい…。「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」というのは、多くの場合、システマティックなものなのだ。そして、私が頼りにしている男性がシステムに乗れない様を見るのが、多分恥ずかしい。なんとかしてくれ、この性分。
ただね、これは一生直らないのかなーと思ってはいたが、今日(本当に今日)、ハッと気付いたことがあるので、ちょっと聞いてほしい。
たとえば、そういうシステマティックな状況でも、本当の「大人の男性」ならわからないときは店員さんに聞くのである。「これはどういうもんですかね?」なんて、ジェントリーに、自分たちがわからない人たちであることを明かすのだ。何が一番恥ずかしいかって、自分たちがわからないのに無理してわかっているフリをして、結局失敗すること。でも、「なんかよくわからないね。」って素直に同意を求められると、私は恥ずかしくなくなる。
この性質を話すと、「めんどくさい女だな。素直に楽しめよ。」と思われることはわかっているから、23年間内緒にしてきた。人に「恥ずかしがっている自分」を知られるのが怖かった。
でも私は確信しているが、多分、近々色々なことが恥ずかしくなくなると思う。一皮剥けた。たとえシステマティックな状況でも、「ま、とりあえず堂々としてようぜ。楽しめばいいじゃん。ほら、楽しいだろ?」って自然に(ほんとに自然に)思わせてくれる男性が、私を色々なところに連れていってくれるから。そして、私が恥ずかしさをもてあましている状態を、すごく大きな「余裕」で包んでくれているのを感じるから。徐々に免疫ができつつあるの。ほんとだよ。
私は、かつての私から解放されたいとずっと思っていた。この恥ずかしがり性質からも。信じてもらえなくてもいいが、きっと大丈夫だと思う。
んが。しかし。
そうはいっても、ディズニーランドには行けない。うん。最近よく遊びに行く人は、さわやかではあるが「ディズニーランド行こうぜ☆」と自分から言い出すことはまず無いと思われるので、それだけは本当によかったと思う。
さて。来週はどこに行こうか。
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備忘。
●本日、免許更新。
初の更新。
初回の講習は2時間だと聞いて、思わず県警に殺意を抱く。
ニュー免許証の写真は実物より良く撮れていて、大満足。
●俵万智の『あなたと読む恋の歌 百首』(朝日新聞社)読了。
誰も知らないだろうけど、私は短歌好き。俳句じゃなく短歌。
印象に残った歌が何首か。
"唇をよせて言葉を放てどもわたしとあなたはわたしとあなた"(阿木津 英)
"洋服の裏側はどんな宇宙かと脱ぎ捨てられた背広に触れる"(永井陽子)
"一度にわれを咲かせるようにくちづけるベンチに厚き本を落として"(梅内美華子)
"私をジャムにしたならどのような香りが立つかブラウスを脱ぐ"(河野小百合)
…エロい。エロ過ぎる。
官能小説なんて目じゃない大和の楚々としたエロさが、たった三十一文字に凝縮されている。(なんて素晴らしいんだ!)
たまに自分でも「この気持ちをどうしたらいいの?」と持てあまして胸が震える瞬間があるが、短歌や詩を読むと、自分だけのものだと思っていた感覚の多くが、先人たちのなぞらえであるとわかる。
ますます、詩人(歌人)になりたくなった。
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