"ホワイト・ラブ"のアフターストーリー
2005年10月27日母と晩酌。
母と私は、似ているようで似てないし、似てないようで似ている。で、酒が入るとようやく「親子」でなくなり、一人の人間同士として話ができたりするのだが、それにしても誠に気が合わない。水と油のようだ。「この俳優いいわね。」なんて滅多に言わないのに、まさにそのタイミングで私が「この俳優の顔は嫌いだな。」と思っていたり、というシンクロニシティに関しては抜群である。
そんな私たちである。が。「ああ、やっぱ親子だな。」と痛感しちゃうところもなくはない。
我が両親は、かれこれ25年以上前にゲレンデで劇的に出会った、小田和正もビックリのカップルだそうで。まさに「あの日、あのとき、あの場所で」だったそうで、その後ゲレンデの雪も溶けよと言わんばかりの情熱的な大恋愛の末に、私は生まれ落ちた。「偶然が偶然を呼んだ出会い」だと母は語る。
もともと、母は「あの日」スキーに行くつもりは無かったと。しかし、インカレの某大学の男の子と知り合いたいと騒ぐ友人と共に、半ば渋々参加したそうな。今考えると、「あの日」スキーに行かなければ父と出会わなかったということは、その友人が「りん生誕」に関してものすごいキーパーソンだったといえる。しかも、スキーに参加した後、父が何かの間違いで母に電話しなかったら(父は相当葛藤したらしい)、やはり「りん生誕」はあり得なかった。
こうひとつひとつ検証していくと、父と母がもんのすごい偶然で出会って、その後も「偶然に見える」ひとつひとつの"必然"に従って、私はようやく生まれたのだ。そう、とにもかくにも("偶然"だろうが"必然"だろうが)私は生まれた。父と母だけのラブ・ストーリーから、私だけの新しいストーリーが23年前に始まったわけだね。
ここからは私の話。私も当然の如く、近い未来を予想しながら最善と思われる選択肢を選んで生きているのだが、ふと過去を思い返すと、「あの日、あのとき、あの場所で」何気なく行動を起こしたことが、今の私にとってものすごい結果をもたらしていることが多々ある。それこそ、私の周りにいる大切な人たちとの出会いは、結構「あの日、あのとき、あの場所で」的だ。大学の入学式でたまたまあのコの側に座らなかったら。たまたまあのとき大学の食堂に行かなかったら。就職活動中にある業界を志望しなかったら。父からセットアップされた専用のパソコンを貰わなかったら。挙げたらキリがない。
(とりあえず、大学入学をひとつの節目として)たまたま最初に出会ったあるコがいて、そのコを大元にして多くの"偶然"が生まれた。そう考えるとあのコの存在はかなり重要だったのだが、そもそもあのコとの出会い自体が、"偶然"なのだ。そして、私の人生はそういう「偶然のあのコ」ばかりでできている。多くの「あのコ」が、私のストーリーに関わったのだ。
ストーリーの大元を知った現段階で、「あの日、あのとき、あの場所」を思い出すと、とてもくすぐったい気分になる。くすぐったいけど、つい「ああ、よかった。」と誰かに教えたくなっちゃうような気持ち。まるで自分がドラマのヒロインになったような、くすぐったい気持ち。そしてくすぐったい気持ちをもって当時を思い出すと、すべてが"偶然"でなく、"必然"だったように思えるのだ。
母も、おそらくそういうくすぐったい気持ちをもてあまして、私に当時のことを語るのだろう。素敵なラブ・ストーリーだと私は素直に思う。彼女のラブ・ストーリーは父と結婚して完結したと本人は思っているのだろうけど、いやいや、そこから発生した私によって、今ここに「続編」ができかけている。もちろん私のストーリーはまだまだ続くし、今が第何話なのかもわからない。でもゲレンデを溶かすような母あっての私だから、しばらくは同じような情熱(ここだけはそっくりである。)を燃やすのだろうな、と。
私も25年後に、缶ビールを片手に、娘(息子)の前で自身のラブ・ストーリーを語るのかな。そのとき「母さん、素敵!」と彼女・彼がはしゃいでしまうような"必然"ができるように、頑張らなくてはいけないな。さて、話に興じる私の側で、照れくさそうに笑うラブ・ストーリーの男主人公は、はたして誰になるのでしょう。(いるのかな?)
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備忘。
●地元のスーパーで肌着購入
夕飯の買い物がてら。
おへその上まで包まれるのではないか!?という、「ゆったりショーツ」発見。色はベージュ(というか、ラクダ色)。温かそうだ。激しく欲しい。と思いつつ、庶民に優しい地域密着型スーパーにあるにしては、比較的可愛めのものをチョイス。
早く、おばさんになりたい。
●『きみに読む物語』(監督:ニック・カサヴェテス)
買い物中にDVD発見。
「身分違いの純愛を貫く若き恋人同士の情熱的な愛と彼らの行く末がつづられる。」
うーむ。猛烈に観たくなった。
上映中から気にはしていたのだ。再チェケ。
「ベタなラブロマンスを好む婦女子」になるのが嫌だという気持ちは、なぜか結構昔から強いのだけど、もう無理しなくていいかな。ベタなラブロマンスが好きだよ、あたしゃ。
映画といえば「アクション」だという父親の影響で、小さい頃から本来趣味じゃないものを見せられ続けたせいで、映画が嫌いになってしまったのだろうか。この際、本来の自分に立ち返ろう。無理せずに。武士じゃないんだから。(女のくせに、よくわからない武士道精神が強くて困る。)
●オーディエンスの一員(かなり最前列)であることを認めつつ、声援を送ることも無視することもできないワタシ(ひとりごと)。
母と私は、似ているようで似てないし、似てないようで似ている。で、酒が入るとようやく「親子」でなくなり、一人の人間同士として話ができたりするのだが、それにしても誠に気が合わない。水と油のようだ。「この俳優いいわね。」なんて滅多に言わないのに、まさにそのタイミングで私が「この俳優の顔は嫌いだな。」と思っていたり、というシンクロニシティに関しては抜群である。
そんな私たちである。が。「ああ、やっぱ親子だな。」と痛感しちゃうところもなくはない。
我が両親は、かれこれ25年以上前にゲレンデで劇的に出会った、小田和正もビックリのカップルだそうで。まさに「あの日、あのとき、あの場所で」だったそうで、その後ゲレンデの雪も溶けよと言わんばかりの情熱的な大恋愛の末に、私は生まれ落ちた。「偶然が偶然を呼んだ出会い」だと母は語る。
もともと、母は「あの日」スキーに行くつもりは無かったと。しかし、インカレの某大学の男の子と知り合いたいと騒ぐ友人と共に、半ば渋々参加したそうな。今考えると、「あの日」スキーに行かなければ父と出会わなかったということは、その友人が「りん生誕」に関してものすごいキーパーソンだったといえる。しかも、スキーに参加した後、父が何かの間違いで母に電話しなかったら(父は相当葛藤したらしい)、やはり「りん生誕」はあり得なかった。
こうひとつひとつ検証していくと、父と母がもんのすごい偶然で出会って、その後も「偶然に見える」ひとつひとつの"必然"に従って、私はようやく生まれたのだ。そう、とにもかくにも("偶然"だろうが"必然"だろうが)私は生まれた。父と母だけのラブ・ストーリーから、私だけの新しいストーリーが23年前に始まったわけだね。
ここからは私の話。私も当然の如く、近い未来を予想しながら最善と思われる選択肢を選んで生きているのだが、ふと過去を思い返すと、「あの日、あのとき、あの場所で」何気なく行動を起こしたことが、今の私にとってものすごい結果をもたらしていることが多々ある。それこそ、私の周りにいる大切な人たちとの出会いは、結構「あの日、あのとき、あの場所で」的だ。大学の入学式でたまたまあのコの側に座らなかったら。たまたまあのとき大学の食堂に行かなかったら。就職活動中にある業界を志望しなかったら。父からセットアップされた専用のパソコンを貰わなかったら。挙げたらキリがない。
(とりあえず、大学入学をひとつの節目として)たまたま最初に出会ったあるコがいて、そのコを大元にして多くの"偶然"が生まれた。そう考えるとあのコの存在はかなり重要だったのだが、そもそもあのコとの出会い自体が、"偶然"なのだ。そして、私の人生はそういう「偶然のあのコ」ばかりでできている。多くの「あのコ」が、私のストーリーに関わったのだ。
ストーリーの大元を知った現段階で、「あの日、あのとき、あの場所」を思い出すと、とてもくすぐったい気分になる。くすぐったいけど、つい「ああ、よかった。」と誰かに教えたくなっちゃうような気持ち。まるで自分がドラマのヒロインになったような、くすぐったい気持ち。そしてくすぐったい気持ちをもって当時を思い出すと、すべてが"偶然"でなく、"必然"だったように思えるのだ。
母も、おそらくそういうくすぐったい気持ちをもてあまして、私に当時のことを語るのだろう。素敵なラブ・ストーリーだと私は素直に思う。彼女のラブ・ストーリーは父と結婚して完結したと本人は思っているのだろうけど、いやいや、そこから発生した私によって、今ここに「続編」ができかけている。もちろん私のストーリーはまだまだ続くし、今が第何話なのかもわからない。でもゲレンデを溶かすような母あっての私だから、しばらくは同じような情熱(ここだけはそっくりである。)を燃やすのだろうな、と。
私も25年後に、缶ビールを片手に、娘(息子)の前で自身のラブ・ストーリーを語るのかな。そのとき「母さん、素敵!」と彼女・彼がはしゃいでしまうような"必然"ができるように、頑張らなくてはいけないな。さて、話に興じる私の側で、照れくさそうに笑うラブ・ストーリーの男主人公は、はたして誰になるのでしょう。(いるのかな?)
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備忘。
●地元のスーパーで肌着購入
夕飯の買い物がてら。
おへその上まで包まれるのではないか!?という、「ゆったりショーツ」発見。色はベージュ(というか、ラクダ色)。温かそうだ。激しく欲しい。と思いつつ、庶民に優しい地域密着型スーパーにあるにしては、比較的可愛めのものをチョイス。
早く、おばさんになりたい。
●『きみに読む物語』(監督:ニック・カサヴェテス)
買い物中にDVD発見。
「身分違いの純愛を貫く若き恋人同士の情熱的な愛と彼らの行く末がつづられる。」
うーむ。猛烈に観たくなった。
上映中から気にはしていたのだ。再チェケ。
「ベタなラブロマンスを好む婦女子」になるのが嫌だという気持ちは、なぜか結構昔から強いのだけど、もう無理しなくていいかな。ベタなラブロマンスが好きだよ、あたしゃ。
映画といえば「アクション」だという父親の影響で、小さい頃から本来趣味じゃないものを見せられ続けたせいで、映画が嫌いになってしまったのだろうか。この際、本来の自分に立ち返ろう。無理せずに。武士じゃないんだから。(女のくせに、よくわからない武士道精神が強くて困る。)
●オーディエンスの一員(かなり最前列)であることを認めつつ、声援を送ることも無視することもできないワタシ(ひとりごと)。
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