私のパソコンの前には大きな窓があって、少しだけ紅くなった落葉樹が見える。いつの間にやらすっかり秋で、いつの間にやら夏の面影もない。

時は既に11月なのだが、さてさてここ数ヶ月の日記をたまーに読み返すと、まったく変化していないように見える日常も、窓から見える落葉樹のように、少しずつ少しずつ色が変わってきているのがわかる。

恐ろしいのは、「今、目の前にある現実」と「今、自分が考えていること」は、その日寝る前に思い返しても、変化しているようには見えないこと。色の濃淡がちょっとずつ異なる10枚の赤いカードがあるとして、一枚だけ見ても「赤」にしか見えないけど、何枚かを並べて比較すると微妙に違うことがわかる。たとえるなら、そういう感じ。

「付き合う直前が一番楽しい。」というのは、ある友人の決め台詞である。かなり共感する一方で、「そうかな?」とも思う。いやいや、やっぱり共感する。「楽しい」という感情を、全く濁りのない無垢なものと定義するのであれば、だが。



あひみてののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり "権中納言敦忠"



なんて歌が千年以上も昔に歌われているのだから、人は何百年、いや何千年もの間、今の私のような「なんともいえない不安」を抱えつつ、それでも恋することをやめられなかったのだろうな、と想像される。

誤解してほしくないのは、私は今「苦しい」わけではないということ。むしろめっちゃ幸福である。でも厄介な性分で、素敵なワイングラスを手に入れてその繊細さを美しいと思う一方で「落として割るかもしれない。」という不安を同時に抱くなら、落としても割れないアルマイト製のカップでいいよと思ってしまうのだ。これは昔から。自分がおいしいポジションにいるのが苦手なの。

そうはいっても、味気ないアルマイトを使っているときは、他人の持つ優雅なワイングラスが羨ましいと思ってしまうのだから、人間というのは生まれた瞬間から死ぬときまで不幸であるなと思う。何をしても、何を手に入れても苦しみはつきまとう。

じゃあどうすればいいのだろう、と。

私は考えた。私の抱く不安が、「諸々の現実問題にまみれて、純粋だった互いへの"リスペクト"が失われていくのかも。」というものだとすれば、熟したワインのような濃い「赤」になる前を、10枚カードを並べてみたら一番薄い「赤」に見えるあの頃を、まだ互いのことを神秘のベールで包んでいたあの頃を、ときどきは思い出せばいいのかな、と。ただ思い出すだけじゃなく、"証拠"として残っているなら、たまには確かめてみるべきだな、と。

(だからね、皆さんも今の恋人と付き合う前にメールや手紙を送り合ったなら、それは"証拠"として残しておいた方がいいと思うよ。)

そして、今「真っ赤」に見えるこのカードが、数ヶ月後、何年か後のカードと比較して、「ああ。一瞬の赤さだったな。」などとならないように、もがこうと思う。何も知らなかった頃、純粋なまま存在していた互いへの"リスペクト"が、色を変えても本質は"リスペクト"のままであってほしいと私は願う。

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備忘。

●世界の女性史9 アメリカ?『新大陸の女性たち』(評論社)読了。

堅苦しくていやだよう、と思ったら、案外興味深い。
17世紀・南部アメリカのプランテーションで生きる奴隷たちの生活について言及が。

その関連で、スティーヴン・スピルバーグ監督の『カラーパープル』を観たくなった。人類のしてきたことの証として、「奴隷制」については最低限知っておくべきだと思う。にも関わらず、私は何も知らない。



●佐藤真由美の『恋する歌音』(集英社文庫)

卒論の合間に、ちょっとずつ。

こういう本の何がいいかって、思いついたときにふと読めることだ。章ごと、ページごとに一首ずつ書かれているので、突然読むのをやめることもできるし、また突然読み始めることもできる。

キスしてと言えばキスしてくれる人 黙って横にいる観覧車 "佐藤真由美"

この歌は秀逸だと思う。
恋人ができて何が嬉しいかって、「キス」がいつでもできるというその安定感が私は嬉しい。でも「キス」をしたからといって何か変わるわけでもないし、かといってしていない時間はまたしたくてたまらなくなったりもする。が、した後の空しさを考えると「キスしたい。」と言い出せない。してもしなくても、なんだか辛い。ああ、人間は贅沢者だ。

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