to live for

2005年11月12日
最近、日記を書いてて思うのだが。

「こんな本を読みマシタ!」と書く私って、もしや「ちょっとインテリっぽい自分をアピールしたい人」なのではないだろうか。もともと恋愛とオシャレが大好きな小娘だからこそ、なおさら「こんな自分もアリマス!」て言いたい、みたいな。

「文化」(←ここでは"俗っぽいもの"に近い意味で使っている)は、いつだって暇を持てあましている裕福な貴族層から生まれた。スポーツも、芸術も、そういうものが多い。明日生きるか死ぬかの闘いを繰り広げている「下層」の人々は、そんなことをしている暇はない。本なんか読む前に、おまんま食えなきゃ意味ねーんだよ!と思うことだろう。

最近本屋に通うことが習慣化したから気付いたのだが、本はやはり安いものではない。食べたいものを切りつめて、余ったお小遣いから、私は得たい知識を買っている。それは、高尚か低俗かの問題はまったく別として、やはり「余裕がある」が故の行動だと思う。

大好きな人にこっぴどくフラれて絶望していた頃、本なんかとても読む気がしなかった。そんな「余裕」は無かったのだ。だから、日々の日記に読んだ本の感想や映画のレビューを書いている人を見ると、「ああ、この人は概ね幸せなのね。」と思った自分がいた。

別に、全力で苦悩して「余裕」が無い人生を送っている人がより素晴らしいと言いたいのではない。ただ、皮肉なことに、世の中が荒廃していることを嘆く内容の本をもっともらしく読んでいるのは、荒廃していく現実を目の当たりにしている人々ではなく、荒廃を横目に自分は「余裕」のある生活を楽しんでいる人々なのだなあ、と。

そういう意味で、何不自由なく大きくなり、当たり前のように高校→大学と進学し、当たり前のように(もちろん大変だったけどさ)来春の勤め先を決めた私が、真の「下層」が存在するこの世の中を、本を読んだだけで理解できるのかな?そんなうわべだけの知識に意味はあるのかな?

一瞬でも「生きるか死ぬかの世界」に没落しそうになった我が家の実態を踏まえても踏まえなくても、私の中には、何らかの拭いきれないコンプレックスがあるのだろう。

サークルの女友だちが、親の金で海外旅行に行くこと、ブランド物を親に買ってもらうことに、強烈な憎しみを抱いていた。バイトをしない人が大嫌いだった(正確に言えば、今も嫌いだ)。そして、同じように、何の不自由もなく(そんなことはないとわかったけどね。社会人は見えないところで本当に大変な思いをしていたんだって。)お金を稼いでいる人たちでさえ、難しそうな本を読んでいるだけでインテリを気取っているような気がして、それがどうしても憎かった。

本を手にとってレジに向かうとき、一瞬、このコンプレックスと私は闘う。「おまえは余裕ぶっこいたインテリか?」と。

ただね。真の「下層」が本当に存在して日々の糧のために闘っているのなら。私はそういう心配を(今のところ)しなくていいのだけど、それならなおさら「余裕」がある人なりの努力をしなくてはいけないんだ。うわべだけの理解じゃ意味ないからといって、本も読まない、ニュースも見ない、では駄目なんだ。それは恋にとち狂って自分を見失う以上の悪行だ。

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備忘。

●三浦展の『下流社会』(光文社新書)

読み始めたキッカケは、周りのそんけーすべき大人たちがみんな読んでいるとわかったからという、誠に子どもっぽい理由。

まだ序盤だが、私の中の闘志に早くも引火。ボッ!

皆がどのように「次に読む本」を決めているのか。それが今一番興味のあるところ。私は上記のように、好きな人が読んでいるからとか、近づきたいあの人が読んでいるからとか、そういう理由で選んでいるけど、方向が定まるまではこのままでやっていくしかないな。そのうち、チョイスする本に「私の色」が出てくるのだろうか。



●ホイットニー・ヒューストンの『そよ風のおくりもの』

このCD、邦題のすべてがクサ過ぎる。

「やさしくマイ・ハート」と「シンキン・アバウト・ユー」がブログを書くときにうってつけ。

もう何年も昔に父に貰ったのだが、初めて聴く。いいね、ホイットニー!!これからはこっち系(何系??)で行こうと思ったので、備忘。

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