卒論対策につき、プチ引きこもり状態継続中。

三浦展の『下流社会』(光文社新書)を一気に読了。

端的に述べるが、私はこのような本があまり好みではない。というのも、いわゆる枠組み的考え方が嫌いとかそういうことではなく、社会がどうなっているのかを数値化して「目に見えるもの」として検証するスタイルに、そこまで興味を覚えないということなのかもしれない。(だったら、新書を読むなという意見が出そうだ。)

新聞も、ニュースも、カルチャーも、社会に関するすべてに対してそうなんだけど、どこかで「どうでもいいわ。」と思っている。それを自分で潔しとしていないので努力こそしてはいるが、どうしてもこの「どうでもいいわ。」感だけは消えない。こういった目に見えるものより形而上学的な何かを重視する傾向が、とにもかくにも私の中にはある。

それはそれとして、今回のこの本、好きではないがタメにはなった。というのも、以下のことがわかったから。

私の父親はそこそこ高学歴の人なのだが、のっぴきならない事情で脱サラした。家族三人(父、母、私)まごうかたなき「中」だと思っていたのに、一瞬ではあるが「下の下」に没落した。旅行もして、美味しいものを食べて、高度経済成長の恩恵を受けてすくすく育った私(世代でいえば、真性団塊ジュニアのちょっと下か。)は、日本人全体の「中」意識が崩れる前に、ちょっと早めに没落の恐怖と「下」意識を植え付けられてしまった。

戦後、多くの人が「下」から「中」へ這い上がろうと努力したようなことを、今の私はやっているのだ。我が家の生活水準がどうかはともかく、父も母もやや「下」意識があるし、「中流」が既に私の中では神々しいもののような。それって、高度経済成長以前の感覚である!

つまり私は若干古臭く、団塊の世代が築き上げた(まさに今崩れようとしている)「平均的日本の中流家庭」を誰よりも求めるという、まさに時代の現象に逆行した生き方をしているわけだ。そりゃあ、上昇志向も強くなるわけで。しかも初めから「下」だったわけではないので、周りの目と残った持ち物には「中」の匂いが色濃くある。ギャップがある。

著者の造語「下流」の特徴として、「自分らしさを求める」という傾向があるらしい。そして、「自分らしく生きられればいいや。」という考え方が、上昇意欲を低下させる。ふむ。それを踏まえると、私は本当に上昇志向が強い(単に、多くの収入を得たいというだけでなく、精神的な意味でも)ので、この定義でいえば「下流」ではないのかもしれない。

が、それがわかったからといって、何がどうやねん、と。



ともかく、読後の正直な感想としては、「生きていくのがこわくなった。」



私がハッと物心ついたときには既にバブルが崩壊していて、環境問題は深刻化していて、高校受験の頃は就職氷河期だった。将来の進路を決めようとした秋に、あの9.11のテロが起こった。私は持ち前のハングリー精神を発揮して、「なにくそー!」と必死こいて生きてきたし(幸い、体も丈夫だ。)、今後も真の「下流」のように「まあいっか。」とは決して思わない。だが、それはそれとして、生きていくのがこわい。

嫌なことや辛いことばかりじゃないことはわかるけど、それでもドブの中から綺麗なものを必死で探していかなければ自分が自分でいられない世界に、来春以降とうとう放り出されると思うと、「一人じゃいや。」と、強く思う。




追記。

この本では、団塊ジュニア世代の男女を大きく類型に分けているのだが、「そこまで分けなくても…」と思いつつ、あまりに具体的過ぎてちょっぴり面白かった。

ちなみに私は、ロハス系とSPA!系を足して二で割ったあと、ちょっとロハス寄りにしたような一見「いけすかない男性」がタイプです。よろしくお願いします。

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★ゲルタ改さま。

以前から欠かさず読ませていただいておりましたが、今回、ついにリンクさせていただきました。下品でくだらん中に(失礼)、ものすごい知性を感じますよ。
よろしくお願いします。

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