恋人の腕の中できく社会の話
2005年11月18日私はほとんどテレビを観ない人間だが、それでもオリンピックの時期になれば多少は気にする。
同じく、普段はまったく興味ないが、サッカーのワールドカップの時期になればやはり多少は気にする。つまり、私のような俗事への興味の薄い人間でも気にするくらいの、国民的イベントなのだ、どちらも。
オリンピックもワールドカップも、普段は交流の少ない国同士が一同に会し、なんちゅうかパッと見は"良さげなイベント"である。会場に足を運ぶ人もテレビで中継を観る人も、大いに盛り上がる。立派な"娯楽"として成り立っているし、私はそれらを本当に完全なる"娯楽"として認識していた。"娯楽"以外の何物でもないと思っていた。
オリンピックを仕切っているのは、日本ではD通という会社で、そこと契約しているM下電器はオリンピックを肴に様々な宣伝ができるけど、たとえばM下と似たような会社のS●NYはどうかといえば。S●NYは広告の中で「オリンピック」という単語を使うことすら許されない。D通の許可を得ていないからだ。
ある一大イベントを取り仕切る大会社(主に広告代理店)は、"娯楽"を肴に様々な会社(主にメーカー)に、「この指とーまれ!」と声をかける。"娯楽"はみんな大好きだから、みんながテレビを見るよ、宣伝になるよ、と言う。メーカーはお金を出して、"娯楽"のスポンサーとしての権利を買う。そうして集まったお金で、広告代理店は"娯楽"を開催する。むしろ、代理店はメーカーが出してくれるお金が無いと、開催することすらできない。
"娯楽"はいつも立派な謳い文句を背負っている。私は「うさん臭いなあ。」と思いつつ、その謳い文句の精神(「世界の国々がみんな仲良く!」みたいな。)は嫌いではなかった。ただ、その精神を100%鵜呑みにして、完全なる"娯楽"として享受している人々の知らないところに、私の予想もできない何かが、ある。
テレビも、雑誌も、街の広告も、扱っている商品を「素敵でしょ?」と私たちに広める。それら広告媒体が無ければ、私たちの生活は味気ないものになってしまう。だって、メーカーがいくら良いものを作っても、知ることができないから。"娯楽"も「素敵なイベントでしょ?」と私たちに訴え、現に私たちはそういうイベントがあるから生きてて楽しいと思えるし、つまり、"娯楽"を取り仕切る代理店様々なのだ。
ただね。
ほんのつい最近まで、私はそういった街の広告の"商品"だけを見ていた。そして一大イベントを単純に"娯楽"として見ていたんだ。"商品"と"娯楽"以上のものではないと思っていたんだ。広告もイベントも、消費者である私たちのためのものだと思っていたんだ。現に、私たちのものである。
でも、「私たちのものである」というのはそれら広告媒体の一側面で、別の見えない側面がたしかに存在することを、私は恋人の腕の中で知った。
じゃあ広告は必ずしも悪かといえば、多分そういう単純な話ではない。そういう単純な話ではないのだけど、子どもの頃おもちゃで遊びながら「楽しいなあ!」とただ喜んでいたように、素敵に見えている社会の中で「楽しいなあ!」とただ喜んでいるだけでは、私は来年以降、きっと溺れてしまう。
なら、どうする?
どうもしない。私にはどうにもできないのだけど、こんな馬鹿な私を後ろから抱きしめてくれる恋人の腕をつかみながら、いつまでもこの二本の腕だけを頼りにしていては駄目だなと、せめて横に並んで手を繋ぎながらともに闘っていけるだけの知恵や知識や体力を、私はどうしても手に入れなければいけないんだ。
なんとなくではなく、たしかな決意として、そういう気持ちが私の中にはあります。
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備忘。
●文庫版『東京都市図』(昭文社)購入。
行ったことのない場所へ行く機会が増えたので。
道に迷うのを防止というよりは、行った場所を記録するために。素敵なお店の電話番号も一緒にメモしておこうという魂胆。ふふふ。
私はどうして就職活動中にこのような地図を買わなかったのか、不思議でならない。やっぱり就活をナメてたのだろうか。
地図って、本当に便利ですね。
同じく、普段はまったく興味ないが、サッカーのワールドカップの時期になればやはり多少は気にする。つまり、私のような俗事への興味の薄い人間でも気にするくらいの、国民的イベントなのだ、どちらも。
オリンピックもワールドカップも、普段は交流の少ない国同士が一同に会し、なんちゅうかパッと見は"良さげなイベント"である。会場に足を運ぶ人もテレビで中継を観る人も、大いに盛り上がる。立派な"娯楽"として成り立っているし、私はそれらを本当に完全なる"娯楽"として認識していた。"娯楽"以外の何物でもないと思っていた。
オリンピックを仕切っているのは、日本ではD通という会社で、そこと契約しているM下電器はオリンピックを肴に様々な宣伝ができるけど、たとえばM下と似たような会社のS●NYはどうかといえば。S●NYは広告の中で「オリンピック」という単語を使うことすら許されない。D通の許可を得ていないからだ。
ある一大イベントを取り仕切る大会社(主に広告代理店)は、"娯楽"を肴に様々な会社(主にメーカー)に、「この指とーまれ!」と声をかける。"娯楽"はみんな大好きだから、みんながテレビを見るよ、宣伝になるよ、と言う。メーカーはお金を出して、"娯楽"のスポンサーとしての権利を買う。そうして集まったお金で、広告代理店は"娯楽"を開催する。むしろ、代理店はメーカーが出してくれるお金が無いと、開催することすらできない。
"娯楽"はいつも立派な謳い文句を背負っている。私は「うさん臭いなあ。」と思いつつ、その謳い文句の精神(「世界の国々がみんな仲良く!」みたいな。)は嫌いではなかった。ただ、その精神を100%鵜呑みにして、完全なる"娯楽"として享受している人々の知らないところに、私の予想もできない何かが、ある。
テレビも、雑誌も、街の広告も、扱っている商品を「素敵でしょ?」と私たちに広める。それら広告媒体が無ければ、私たちの生活は味気ないものになってしまう。だって、メーカーがいくら良いものを作っても、知ることができないから。"娯楽"も「素敵なイベントでしょ?」と私たちに訴え、現に私たちはそういうイベントがあるから生きてて楽しいと思えるし、つまり、"娯楽"を取り仕切る代理店様々なのだ。
ただね。
ほんのつい最近まで、私はそういった街の広告の"商品"だけを見ていた。そして一大イベントを単純に"娯楽"として見ていたんだ。"商品"と"娯楽"以上のものではないと思っていたんだ。広告もイベントも、消費者である私たちのためのものだと思っていたんだ。現に、私たちのものである。
でも、「私たちのものである」というのはそれら広告媒体の一側面で、別の見えない側面がたしかに存在することを、私は恋人の腕の中で知った。
じゃあ広告は必ずしも悪かといえば、多分そういう単純な話ではない。そういう単純な話ではないのだけど、子どもの頃おもちゃで遊びながら「楽しいなあ!」とただ喜んでいたように、素敵に見えている社会の中で「楽しいなあ!」とただ喜んでいるだけでは、私は来年以降、きっと溺れてしまう。
なら、どうする?
どうもしない。私にはどうにもできないのだけど、こんな馬鹿な私を後ろから抱きしめてくれる恋人の腕をつかみながら、いつまでもこの二本の腕だけを頼りにしていては駄目だなと、せめて横に並んで手を繋ぎながらともに闘っていけるだけの知恵や知識や体力を、私はどうしても手に入れなければいけないんだ。
なんとなくではなく、たしかな決意として、そういう気持ちが私の中にはあります。
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備忘。
●文庫版『東京都市図』(昭文社)購入。
行ったことのない場所へ行く機会が増えたので。
道に迷うのを防止というよりは、行った場所を記録するために。素敵なお店の電話番号も一緒にメモしておこうという魂胆。ふふふ。
私はどうして就職活動中にこのような地図を買わなかったのか、不思議でならない。やっぱり就活をナメてたのだろうか。
地図って、本当に便利ですね。
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