調整
2005年11月22日バブリー臭漂うものに対して、私は言いようもない憎しみを抱いている。
というのは、私とある程度親しくしている人ならご存知だろう。婦女子が好みそうなセレブスポットも嫌いである。六本木ヒルズや、お台場や、カレッタ汐留や、天王洲アイルも嫌いである。地域的には、東京の南西(山手線でいえば左下)はやや嫌いだ。好みは北東(同じく山手線でいえば右上)寄りだ。もちろんテーマパークも嫌いである。
閑話休題。
最近話題になっている耐震強度偽造事件に関して。たしかに「オイオイ、ちゃんとしてくれよう。」とは思うが、そもそも、だよ。そもそも、10階だか20階だかの建物を建ててそこに住もうとする行為自体に無理があるのではないだろうか。背の低いものが高いものより安定することくらい、積み木で遊んでいる幼児にだってわかる。びょーんと高い建物にせっせと安定するような工夫を施すこと自体、そもそもキビシイと思う。
…という思考を私はしがちなのだ。つまり、「そもそもさあ。」という考え方。"そもそも論"と名付けよう。
この"そもそも論"で話を進めると、何もかもが本末転倒に思えてくる。この"そもそも論"は非常に便利で、意見を求められたときに「そもそも…」と言いつつ使うと、パッと聞き正論だから、周囲の人を煙に巻くことができる。着眼点が違うなあと言われることもあるだろう。が、よーく考えてみると、何ら根本的解決にならない意見でお茶を濁しているだけなのだ。
そもそも人間が生きていくために最低限必要なもの、と考えていくと、あらゆるもの(バブリーなものはもちろん)は必要なくなってしまう。高層マンションも、きらびやかな洋服も、必要以上に高い食べ物も、高級腕時計も、目が飛び出るような値段の外車も要らない。なぜそれらに対する憎しみが私の中にあるのだろうかと考えると、やはり「そういうものに縁が無かったし、今後も多分手に入らないだろう。」というコンプレックスからきているはず。
本当はコンプレックスからきている憎しみに対して、一見良さそうな"そもそも論"を適用するのは、まるですべてを悟りきった僧侶のような印象を、人々に与える。それって、ずるい。本当は、高度経済成長期にせっせと頑張って造った先人たちの努力に敬意を払って、それらの良い部分は良い部分として享受すべきなのだ。だって、"そもそも論"をただふりかざすだけでは、一向に目の前の問題は解決しないのだから。
ただ、「そもそもさあ。」という気持ちを誰よりも強く意識している私は、馬鹿みたいにバブリーなものの中に浸っている人たちにはできない何かができるんじゃないか、って。そういう気持ちは忘れたくない。でも"そもそも論"を語って満足しているだけでは、コンプレックスからの逃げでしかない。だから私は「そもそもさあ。」と思いつつも、「現実問題としてどうしたらいいのよ?」と考えられるだけの現実性は保っていけるようにしたい。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●『会社は株主のものではない』(洋泉社)
普段ほとんど使っていない脳の部位を刺激しつつ、読んでいる。
「産業資本主義」から「ポスト産業資本主義」へのパラダイム・シフトに関しての記述を読んだ瞬間、あることに気付いた。
"パラダイム"とは、受験生当時(現代文対策をしていた。)の怪しい記憶によると、「ある時代に生きる人々が共有する考え方の枠組み」だが、つまり、今私が当たり前のように捉えている知的な概念の多くは"パラダイム"であるということだ。恐ろしいのは、このパラダイムが、まるで大昔から厳然と存在していたような気がしてしまうこと。それこそ天動説が信じられていた15世紀以前、誰もが地球を中心として空が動いていると信じ、疑いもしなかったように。
ポスト産業資本主義時代の申し子ともいえる私の世代は、戦後の日本人の多くが経験してきたパラダイム・シフトを知らず、つまり、今(厳密な意味で今)当たり前のようにあるパラダイムを、それが既に移行した後のものだと知らず受けとめている。
私がこのような本を読んで驚くのは、就職活動中すら気付かなかった自分にとって当たり前のパラダイムが、本当は厳然たるグローバル・スタンダードでもなんでもなくて、単に「今」そうなっているに過ぎない、ということに気付くからだ。
そういう意味では、世の中のことを勉強するとき、バブル崩壊というタイミングで大きなパラダイム・シフトが為されたときにまだ物心がついていなかった私たちの世代は、それを間近で見ていた団塊ジュニアもしくは真性団塊ジュニアの方々に比べると、少し大変なのかもしれない。
というのは、私とある程度親しくしている人ならご存知だろう。婦女子が好みそうなセレブスポットも嫌いである。六本木ヒルズや、お台場や、カレッタ汐留や、天王洲アイルも嫌いである。地域的には、東京の南西(山手線でいえば左下)はやや嫌いだ。好みは北東(同じく山手線でいえば右上)寄りだ。もちろんテーマパークも嫌いである。
閑話休題。
最近話題になっている耐震強度偽造事件に関して。たしかに「オイオイ、ちゃんとしてくれよう。」とは思うが、そもそも、だよ。そもそも、10階だか20階だかの建物を建ててそこに住もうとする行為自体に無理があるのではないだろうか。背の低いものが高いものより安定することくらい、積み木で遊んでいる幼児にだってわかる。びょーんと高い建物にせっせと安定するような工夫を施すこと自体、そもそもキビシイと思う。
…という思考を私はしがちなのだ。つまり、「そもそもさあ。」という考え方。"そもそも論"と名付けよう。
この"そもそも論"で話を進めると、何もかもが本末転倒に思えてくる。この"そもそも論"は非常に便利で、意見を求められたときに「そもそも…」と言いつつ使うと、パッと聞き正論だから、周囲の人を煙に巻くことができる。着眼点が違うなあと言われることもあるだろう。が、よーく考えてみると、何ら根本的解決にならない意見でお茶を濁しているだけなのだ。
そもそも人間が生きていくために最低限必要なもの、と考えていくと、あらゆるもの(バブリーなものはもちろん)は必要なくなってしまう。高層マンションも、きらびやかな洋服も、必要以上に高い食べ物も、高級腕時計も、目が飛び出るような値段の外車も要らない。なぜそれらに対する憎しみが私の中にあるのだろうかと考えると、やはり「そういうものに縁が無かったし、今後も多分手に入らないだろう。」というコンプレックスからきているはず。
本当はコンプレックスからきている憎しみに対して、一見良さそうな"そもそも論"を適用するのは、まるですべてを悟りきった僧侶のような印象を、人々に与える。それって、ずるい。本当は、高度経済成長期にせっせと頑張って造った先人たちの努力に敬意を払って、それらの良い部分は良い部分として享受すべきなのだ。だって、"そもそも論"をただふりかざすだけでは、一向に目の前の問題は解決しないのだから。
ただ、「そもそもさあ。」という気持ちを誰よりも強く意識している私は、馬鹿みたいにバブリーなものの中に浸っている人たちにはできない何かができるんじゃないか、って。そういう気持ちは忘れたくない。でも"そもそも論"を語って満足しているだけでは、コンプレックスからの逃げでしかない。だから私は「そもそもさあ。」と思いつつも、「現実問題としてどうしたらいいのよ?」と考えられるだけの現実性は保っていけるようにしたい。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●『会社は株主のものではない』(洋泉社)
普段ほとんど使っていない脳の部位を刺激しつつ、読んでいる。
「産業資本主義」から「ポスト産業資本主義」へのパラダイム・シフトに関しての記述を読んだ瞬間、あることに気付いた。
"パラダイム"とは、受験生当時(現代文対策をしていた。)の怪しい記憶によると、「ある時代に生きる人々が共有する考え方の枠組み」だが、つまり、今私が当たり前のように捉えている知的な概念の多くは"パラダイム"であるということだ。恐ろしいのは、このパラダイムが、まるで大昔から厳然と存在していたような気がしてしまうこと。それこそ天動説が信じられていた15世紀以前、誰もが地球を中心として空が動いていると信じ、疑いもしなかったように。
ポスト産業資本主義時代の申し子ともいえる私の世代は、戦後の日本人の多くが経験してきたパラダイム・シフトを知らず、つまり、今(厳密な意味で今)当たり前のようにあるパラダイムを、それが既に移行した後のものだと知らず受けとめている。
私がこのような本を読んで驚くのは、就職活動中すら気付かなかった自分にとって当たり前のパラダイムが、本当は厳然たるグローバル・スタンダードでもなんでもなくて、単に「今」そうなっているに過ぎない、ということに気付くからだ。
そういう意味では、世の中のことを勉強するとき、バブル崩壊というタイミングで大きなパラダイム・シフトが為されたときにまだ物心がついていなかった私たちの世代は、それを間近で見ていた団塊ジュニアもしくは真性団塊ジュニアの方々に比べると、少し大変なのかもしれない。
コメント