今日は「神秘性」についての話。

自分にとって得体のしれない何かを前にしたとき、心の中には二つのものが発生する。「畏怖」と「好奇心」だ。畏怖、つまり、怖くて近づけないという気持ち。好奇心はその通りの意味だ。まったく正反対に思えるこの二つの感情が同時に発生するのは、対象に「神秘性」を見いだしたときである。と、私は思う。

この「神秘性」というのはとてももどかしいようで、実は有り難い。

わかりやすい例を出そう。尊敬するある教授の著書を読んで、その教授の下で勉強したいと思って大学に行き、研究室に所属したとしよう。著書をただ読んでいる段階では教授の人となりを知る由もないから(文章からある程度の人柄は滲み出るとしても)、研究室に所属する前は、教授に「神秘性」を認めているということになる。

が、実際に教授に会ってみたら、その教授は意外にいやな奴だったとする。共存していた「畏怖」と「好奇心」は、楔(くさび)を外されバラバラになる。「神秘性」を保っていた段階では、教授のいやな面を認識しつつも、自分が相手をよく知らないという後ろめたさがあるので、あまりクローズアップされないのだ。教授をよく知ることにより、「畏怖」と「好奇心」が絶妙なバランスを保っているイイ状態ではなくなるのだ。

絶妙なバランスを保っている状態がどういうものかというと、「あ、この考え方はいやだな。」と思っても、よく知らないのに判断してはいかんというセーブが入るということ。逆に、「あ、この考え方は素敵だな。」と思っても、よく知らないから盲信するのも危険だなというセーブが入る。これは、ある対象に接する際の理想的な距離感だと思う。

何も知らない子どもにとって、世界が夏休みの太陽みたいに輝いて見えるのは、「神秘性」が崩れるのを間近で見る経験をしていないからだろう。誰もが大人になる課程で、何度も何度もこの「神秘性」崩壊を経験しているのに、それでも懲りずにまた「神秘性」を求めて、そしてまた傷つく。

何遍も恋の辛さを味わったって不気味なくらい私は今恋に落ちてゆくけど、それは、「神秘性」崩壊に向けて確実にスタートしてしまったということだ。もう後戻りはできない。ただ、私より年長の人たちが私よりたくさんの「神秘性」崩壊を経験しているのに、それでも絶望せずに生きているということは、全てが崩れきったゴール地点で何らかの"オトシマエ"をつけたからだと思うのだ。

この「神秘性」崩壊をまったく経験する以前の子ども時代ではなくなった。そして、何らかのオトシマエをつける術を完全に得た大人時代は、まだ遙か前方にある。じゃあどのタイミングでオトシマエをつけるのよ?と私は考えたのだが、それがまさに「恋」でなくアレを学ぶときなのだ、と。このオトシマエをどうしてもつけたいと思うとき、誰もが手に入れたくて仕方ないあの"ハート型の何か"に向けて、まさに手を伸ばしているのだと思う。

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備忘。

●ピーター・J・ボウラーの『ダーウィン革命の神話』(朝日新聞社)

なんだかんだで、こういう本が大好き。

中学や高校時代に歴史の授業で「ダーウィンという人が『進化論』を書いて一世を風靡したのだ。」という記述を読んでも、多くの生徒はへえ〜程度の認識しか持たない。同じく、「コロンブスが1492年に新大陸を発見した。」という記述についても、私はへえ〜としか思わなかった。正常な反応だったと思う。

大きくなってからからわかったのだが、コロンブスの新大陸発見に伴う東インド会社設立などの歴史的事実が、現代日本の経済に関する本でも大きく取り扱われていたりする。同じように、ただ一冊の本を書いただけのダーウィンというオッサンが、19世紀以降の自然科学の発達(のみならず、当時の宗教観)にものすごい影響を与えたということも、歴史とは関係のない書物の中でわかる。

ひしひしと認識しているのは、「わけもわからないまま教えられた歴史」を、大人になる課程で一度整理整頓すると、とても面白いのだということ。これがわかっただけでも大学に行った甲斐があったというものだ。

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