適温

2005年11月25日
自分の元に降ってきた案件については「とりあえずめっちゃがんばる!」というのが、私の基本ポリシー。

いつでも私の中には熱いものが流れていて、それに従うこと・情熱的になることが、自分にとって一番気持ちのよい生き方だった。そして、そういう自分が好きだったのだけど。

最近になって、ちょっと変わった。少なくとも、今は頑張っている自分を押し出すことに抵抗がある。これは、かつて無かったこと。ターニング・ポイントはいつだったのだろう?と考えてみたのだが、多分、大学三年の春。大学生活のすべてといっても過言ではないサークル活動をやめたときだ。

自分にとって世界のすべてだったあるものを失う体験は、中学の頃から部活一本で生きてきた私には衝撃的だったといえよう。私がどうして目の前のものに熱中するのかといえば、ほかのことを考えなくていいという免罪符が手に入るからだったんだなあ、とそのとき初めて気付いた。

熱中するものが、"世間的に見て良さげなもの"であればあるほど、免罪符の効果は大きくなる。特に部活は立派な課外活動として定着してる感があるし、受験勉強も、就職活動も、頑張ってる人の方が頑張ってない人より、一見"良さげ"に見える。それらを隠れみのにする小狡さを、私は小さい頃からもっていたのだなあ。

サークルをやめてわかったのは、世の中にはやるべきことがたくさんあって、それらの全てが"良さげなもの"ではないということだ。たとえば遊ぶための小遣いを稼ぐアルバイトが、立派な課外活動とはたしていえるだろうか。ものすごく個人的な趣味(オタクっぽいものならなおさら)が、はたして課外活動になるだろうか。私はそれらに貴賤が無いことに気付いた。どれだけ"良さげ"に見えることをやっても、それはギャルゲーにハマっているA系と、本質的には何ら変わりがないのだと。

A系がギャルゲーに熱中して「家のことおろそかになるけど許してよ!」と言っても、こちらとしては「オイオイ。待てよ。」と思う。受験勉強も、部活も、就職活動も、それらに積極的に取り組んでいるとき(ここポイント。つまり、強制されてやっているわけではないとき)に、「ほかのことおろそかになるけど許してよ!」と言っても、「オイオイ、待てよ。」と思う人はいつでもいるということだ。

私はかつて恋にのめり込み過ぎて叱られたことがあるけど、ほかの"良さげなこと"をしているときは許されていた気がする。だから、免罪符たるサークル活動をやめるまで気付かなかった。失ったもの(大切な仲間、誇れる経歴等)はたくさんあったけど、世の中を客観的に見られるようになった。そしていざやめるまで気付けないのなら、私はやはりどうしてもあのときサークルをやめなければいけなかったのだろう、と。

社会人になったら、今まで以上に大きな「仕事」という免罪符を手に入れる。周りの人から「大変だろうから無理しなくていいよ。」と言ってもらえれば甘えようと思っているけど、自分から「大変だから甘えさせて!」と強いてはいけないのだろうなあ、と、ユニフォームを着て笑顔を浮かべる当時の写真を見ながら思う。

触れたら火傷するような私も好きだったけど、私は今の私(ちょうど人肌くらいの温度かしら?)も好き。

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備忘。

●本日のBGM。

『Cyber TRANCE presents SUNSHINE TRANCE』

いつの間にか家にあった。多分、父がどこかから持ってきたもの。ダンス系というのか、テクノ系というのか、よくわかりません。

アコギが染みるバラードや、ジャズや、クラシックも好きだけど、私はこういうモロ機械の「テケテケ♪」音が一番好きなのかもしれない。そんで、基本ハイテンポ。パラパラとかやったことないけど、多分好きだねあのノリは。そうか、ダンスミュージックが好きなのだな私って。

倖田來未の「Trust Your Love(Thunderpuss Radio Mix)」もリピート中。

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