オープン・マインドは美徳なのだろうか。

私は定期的に自分の日記を読み返すのだが、以前ある日記(2005年・5月29日&30日)を書いた自分が、もはやどこにもいないことに気付いた。

心の奥のやわらかい部分を解放することは、私の愛情表現であり、たとえそれが「心の闇」と呼べるものであっても、それすらを愛してくれる人が好きだった。親愛なる人だからこそ「心の闇」を見せるべきであり、腹を割って話してくれない人を「信用ならない人」だと思いこんでいた節がある。私にとって、オープン・マインドは紛れもない美徳だったのだ。

今も「本音」を悪いものだとは思っていない。ただ、全力で闇を隠してあげることこそが、優しさだったり思い遣りだったりするんじゃないかと思うようになった。

私がどうしてオープン・マインドを重んじていたのかがわかった。私は「闘う」という行為がたぶん好きで、鞘から刀を抜いて闘う武士道精神にものすごい価値を認めていたのだ。「本音」を隠すことは、臆病者の農民が戦場に行くことを拒否する行為と同じだと。だから私は戦場に出ていた。自分が"倒すべきもの"に対して刀を振り回し、その姿を美しい・立派だと思ってくれる人を探していたのだ。元服したばかりの若武者のようだ。

でも気付いた。

私は戦場で闘っている自分にちょっと酔っていて、家に帰っても家族の前で刀を見せびらかしたかったのだよ。家族に文句を言われても、「あなたたちを斬ることはないから安心して。」と言えばそれで事が済むと思っていた。でも本当に立派な侍は、自分の大切な人の前では鞘から刀を抜かないのだ。それが「心の闇」を全力で隠すということだ。

ものすごい闘志を持っているはずの人たちが、私の前でその闘志たる「本音」を見せないとき、じれったいなあと思っていた。でもそういう人たちは、あっさり刀を抜いて、そのつもりがなくても、万が一でも私を傷つけてしまう可能性を恐れていたのかもしれない。

あの日記を書いた私は、「本音」を野球の直球に例えていたけど、その例えをもう一度採用するなら、私はもはや直球だけを投げ続けるピッチャーではない。打たれても構わないとがむしゃらに自分の信念を貫くことは今も否定しないけど、これからは「今がそのときだ。」と思うまでは、マウンドに立つこと自体をやめよう。どうしても「本音」を言わなければいけないとき、自分の中でどうしても譲れないことがあるときに限り、私は全力で直球を投げよう。

力を誇示しない侍と、ピンチの際だけ出てくるピッチャーは、似ている。

どちらも普段は頼りないように見えるし、私はかつてあからさまなものをとても愛していたけど、最近、色々なものが一本の糸に繋がったような気がして、少し嬉しい。

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備忘。

●卒業論文、難航。

もはや肉付けは終わった。あとはその肉の中に、ぶっとい一本の骨を埋め込むのみ。「骨を固めてから肉付けをするのが普通の順序では?」と思うかもしれないけど、卒業論文とは、多分こういうものなのだ(と、思う)。

肉は、文献を集めれば容易に手に入る。骨は、私にしか作れない。


●ジャズブーム継続中。

本日は、マイルス・デイビスの『RELAXIN’』。

最近聴いたばかりの『Waltz for Debby』とは、全然違う。あれはTrio(三人)で、今回はQuintet(五人)なのだから、違って当然といえば当然だ。タイトル通り、リラックスできる一枚。コーヒーを飲みつつまったりできる。

史上名高いマラソン・セッション(って何だろう?)で吹き込まれた四部作中の一枚、だそうだ。「いいなあ。」と思いながらこうしてちょっとずつ聴いていくうちに、皆詳しくなっていくのだろうか。

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