ぷち・レジスタンス(someday)
2005年12月7日コメント (5)むむむな日々、更新中。
最近、苦しいながらもわかったことがある。
「大人」とは、「子ども」にありがちな欠点を埋めていく作業をすべて完了した人のことではなく、ある程度埋めた後に「ここは埋められないぜよ。」と判断した部分を放置できる人のことではないだろうか。
というのも、私が限りなく「大人」と判断した多くの人にも、やはり欠点がある気がしてならないからだ。私は、最近、少しだけ大人になったような気がしているけど、それは欠点を埋める作業がまあまあ済んできたから。しかし、彼らのように割り切れない。
「大人」は欠点たるネガティブな部分をあまり露出しないなあ、と思っていたけど、それはそういった欠点が無いからではなく、「ここは埋められないぜよ。」と納得しているからというのもあるのだろう。
どこを埋めてどこを埋められないかは、たぶん人によって異なる。私が「大人」だと思う人たちにも、「オイオイ…」っていう部分はある。彼らの埋めきれない部分だ。私が「オイオイ…」と気付くところは、自分に関してなら埋められるかもしれない部分だ。だからそういう彼らの真似をするのはやめよう。彼らに「あんたのそこはどーなの?」と言われる私の部分も少しは解放してあげようかな、と。
なんつーか、大人の言うことを素直に聞く行為がすなわち「大人になること」だと思っていたけど、そうではなくて、彼らの言うことに対しての解答(「私はこう思うのです。」という)をたった一人で思いつくことが、「大人になること」なのかもしれない。それを彼らは待っているのかもしれない。彼らは「埋めよ!」と指摘してくるけど、「ここは埋められません!」と力強く断言できる私の姿こそ、正しくはないけど、誠の「大人」たる姿なのかも。
そう考えると、「大人」って、もしかしてあまり素晴らしいものではないのか?
「大人」って、多分、"正しい人"ではないな。正しくはないけど、"楽に生きている人"のような気がするな。少なくとも、「子ども」よりは楽に生きている。
私が社会に出たら、私にとって譲れない何かが出来上がるのだろう。それは彼らに教えられて作るものではなく、私が自分の力で探し出して守らなければいけないものだろう。「大人」になったら批判されなくなると思っていたけれど、たぶん、「大人」になっても批判はやまない。でもその批判を取捨選択できるようになるのだろう。すべての批判に正面からぶち当たって、必要以上に傷つくのではなく。
私が「大人」になる日は、リスペクトする両親や、恋人や、大人の友人たちに対し、「あなたのそこは良くないと思う。」と指摘できる日だろう。今は、まだできない。
こうして、一日、一日、欠点を埋めよう。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●本日のランチ。
音大の院に通う友人と、地元の仏風(?)カフェにて。
この寒いのに、ロコモコを召す。アイスコーヒーを頼んだのは失敗(冷えた)。
彼女は、私と同じく激動の2005年・夏を経て、ようやく落ち着くべきところに落ち着いた模様。一時は(お互いに)どうなることかと思ったが、「生きてればイイこともあるよのう。」とばばくさい話で〆。もしまた「もう死んだ方がいいかな…。」なんてことがこの先起こっても、今日のことを思い出そう。
幸せになってくれ!
●本日のBGM。
YMO(Yellow Magic Orchestra)の『SUPER BEST OF YMO』・二枚組。
リンク先のある方に薦められて。78年〜84年にかけて活躍したらしいので、まさに私が生まれた頃だな。細野晴臣(key,b)、坂本龍一(key)、高橋幸宏(ds,vo)の三人組。ふむ。まさにテクノ。「テケテケ♪」音が大好きな私にはたまらない。欲を言うと、全体的にもう少しハイテンポならなお良かった。
ディスコビートとビデオゲームの電子音で包んだということで、DISC1は特に、ファミコンの音を彷彿とさせる。繰り返しのみで構成されるあの冷たいメロディは、嫌いじゃなかった。余談だが、私の家のファミリーコンピューターはまだ動くので、あの電子音を聴くためだけに起動して、それを流しながら日記を書くこともある。
伝説のバカゲー『チャイルズ・クエスト』のフィールドの曲が特に好きなのだが、あれの作曲者をどうにかして知る手はないだろうか。(EDのスタッフロールをわざわざ見るのは、あまりに馬鹿らしいので…。)
それにしても、ファミコン全盛期には山ほど存在したはずの愛すべきバカゲーたちは、一体どこに行ってしまったのか。「絶対クリアさせる気ないだろう!?」と制作者につかみかかりたくなるようなゲームは、一本に対する制作費が安かったあの時代だからこそ作れたのだろう。PSPや任天堂DSであんなバカゲーを出したら、今の時代、多分訴訟が起きるぞ。
いかん。ゲームネタになると、未だに熱くなってしまう自分がいるな。
誰か、私と一緒にファミコンの話をしませんか?
むしろ、やろう。私の家で。2コンのマイクも使えるヨ!
最近、苦しいながらもわかったことがある。
「大人」とは、「子ども」にありがちな欠点を埋めていく作業をすべて完了した人のことではなく、ある程度埋めた後に「ここは埋められないぜよ。」と判断した部分を放置できる人のことではないだろうか。
というのも、私が限りなく「大人」と判断した多くの人にも、やはり欠点がある気がしてならないからだ。私は、最近、少しだけ大人になったような気がしているけど、それは欠点を埋める作業がまあまあ済んできたから。しかし、彼らのように割り切れない。
「大人」は欠点たるネガティブな部分をあまり露出しないなあ、と思っていたけど、それはそういった欠点が無いからではなく、「ここは埋められないぜよ。」と納得しているからというのもあるのだろう。
どこを埋めてどこを埋められないかは、たぶん人によって異なる。私が「大人」だと思う人たちにも、「オイオイ…」っていう部分はある。彼らの埋めきれない部分だ。私が「オイオイ…」と気付くところは、自分に関してなら埋められるかもしれない部分だ。だからそういう彼らの真似をするのはやめよう。彼らに「あんたのそこはどーなの?」と言われる私の部分も少しは解放してあげようかな、と。
なんつーか、大人の言うことを素直に聞く行為がすなわち「大人になること」だと思っていたけど、そうではなくて、彼らの言うことに対しての解答(「私はこう思うのです。」という)をたった一人で思いつくことが、「大人になること」なのかもしれない。それを彼らは待っているのかもしれない。彼らは「埋めよ!」と指摘してくるけど、「ここは埋められません!」と力強く断言できる私の姿こそ、正しくはないけど、誠の「大人」たる姿なのかも。
そう考えると、「大人」って、もしかしてあまり素晴らしいものではないのか?
「大人」って、多分、"正しい人"ではないな。正しくはないけど、"楽に生きている人"のような気がするな。少なくとも、「子ども」よりは楽に生きている。
私が社会に出たら、私にとって譲れない何かが出来上がるのだろう。それは彼らに教えられて作るものではなく、私が自分の力で探し出して守らなければいけないものだろう。「大人」になったら批判されなくなると思っていたけれど、たぶん、「大人」になっても批判はやまない。でもその批判を取捨選択できるようになるのだろう。すべての批判に正面からぶち当たって、必要以上に傷つくのではなく。
私が「大人」になる日は、リスペクトする両親や、恋人や、大人の友人たちに対し、「あなたのそこは良くないと思う。」と指摘できる日だろう。今は、まだできない。
こうして、一日、一日、欠点を埋めよう。
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備忘。
●本日のランチ。
音大の院に通う友人と、地元の仏風(?)カフェにて。
この寒いのに、ロコモコを召す。アイスコーヒーを頼んだのは失敗(冷えた)。
彼女は、私と同じく激動の2005年・夏を経て、ようやく落ち着くべきところに落ち着いた模様。一時は(お互いに)どうなることかと思ったが、「生きてればイイこともあるよのう。」とばばくさい話で〆。もしまた「もう死んだ方がいいかな…。」なんてことがこの先起こっても、今日のことを思い出そう。
幸せになってくれ!
●本日のBGM。
YMO(Yellow Magic Orchestra)の『SUPER BEST OF YMO』・二枚組。
リンク先のある方に薦められて。78年〜84年にかけて活躍したらしいので、まさに私が生まれた頃だな。細野晴臣(key,b)、坂本龍一(key)、高橋幸宏(ds,vo)の三人組。ふむ。まさにテクノ。「テケテケ♪」音が大好きな私にはたまらない。欲を言うと、全体的にもう少しハイテンポならなお良かった。
ディスコビートとビデオゲームの電子音で包んだということで、DISC1は特に、ファミコンの音を彷彿とさせる。繰り返しのみで構成されるあの冷たいメロディは、嫌いじゃなかった。余談だが、私の家のファミリーコンピューターはまだ動くので、あの電子音を聴くためだけに起動して、それを流しながら日記を書くこともある。
伝説のバカゲー『チャイルズ・クエスト』のフィールドの曲が特に好きなのだが、あれの作曲者をどうにかして知る手はないだろうか。(EDのスタッフロールをわざわざ見るのは、あまりに馬鹿らしいので…。)
それにしても、ファミコン全盛期には山ほど存在したはずの愛すべきバカゲーたちは、一体どこに行ってしまったのか。「絶対クリアさせる気ないだろう!?」と制作者につかみかかりたくなるようなゲームは、一本に対する制作費が安かったあの時代だからこそ作れたのだろう。PSPや任天堂DSであんなバカゲーを出したら、今の時代、多分訴訟が起きるぞ。
いかん。ゲームネタになると、未だに熱くなってしまう自分がいるな。
誰か、私と一緒にファミコンの話をしませんか?
むしろ、やろう。私の家で。2コンのマイクも使えるヨ!
コメント
…ぜよ?なんで土佐弁なんだ!?
「ぜよ」って土佐弁なの!?
私は、父と母の影響と育った土地の関係で、三方言を使いこなすバイリンガルであることが自慢(?)だけど、四国の影響を受けているはずはないなあ。エセ土佐弁を喋ってすんません(笑)。
>サイヤ人さま。
げげっ!!もしやサイヤパパですか!?お久しぶりです!お元気でらっしゃいますか!?読んでくださってたんですね…。
実はあのときうっかりメールできなかったために、サイヤさんのブログの所在がわからないままです。初夏ちゃんに聞けばわかるかしら?
2コンのマイク、さっき使ったら(使うな)、くぐもってました。
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こんな日々だぜよ
見に来てくれどす。