愛のコペルニクス的大転回
2005年12月8日二年ほど前から同じ美容師さん(A氏。31歳。イケメン。)に髪を切ってもらっているのだが、私が進むべき道を見失っていた頃に、印象的な言葉をいただいたことがある。
わたし:「Aさんは結婚しないんですか?」
A氏 :「ベクトルが重なる相手が見つかったら、するだろうね。」
ベクトルが重なる、というのは、当時は「へえー。」程度にしか思わなかったけど。思えば、私は随分と長い間、「恋愛」をすごろくのようにゴールがあるものだと捉えていたような気がする。最近になって、A氏の発言の底深さがわかってきたような。
スタート(出会い)してから、試行錯誤(2コマ戻る、とかな…。)して、それでもちょびっとずつ進んで、ある地点でチェックポイント(めでたく付き合う)を迎え、また試行錯誤して、ときには別れて(スタートに戻る)しまったり。「恋愛」をそのような時間的枠組みで捉えると、当然ゴールが発生するわけだが、じゃあゴールって何?
ゴールがもしもあるなら、そこに到達するまでは頑張るとして、それ以降はどうなるのだろう。仮に結婚がゴールだとして、二人はネクストステージに進むわけだが、そうなるとまた試行錯誤することになる。じゃあ次のゴールは何になるのだろう、という疑問が当然発生する。「妊娠・出産」か?なんか違うなあ。「死別」だろうか?
時間的枠組みで「恋愛」を捉えると、すべての出来事に一喜一憂するはめになるけど、どうもその考え方はイケてないんじゃないかな、と思う今年の冬。そもそも出会いをスタート地点として捉えるところからして、たぶん違う。
そう、出会った瞬間がゴール地点なんだ。「恋愛」とは、スタートからゴールに到達する一連の流れではなく、ゴールのように見える魂と魂の共鳴を、何度も何度も何度も何度も重ねていく行為を、俯瞰して眺めた"状態"だ。そこにステップや段階のようなものは無い。あくまでも一瞬でしかない共鳴を、何個もかき集めて後から眺めるからそれらがひとまとまりに見えるだけだ。バラバラに切断されたタクアンを、まとめて並べれば一つの大根の原形が想像できるように。
私の人生が未来(こうありたいと思う方向)に向かってまっすぐ伸びているとするなら、私の好きな人の人生も、彼の向かうべき方向へまっすぐ伸びているはず。そのベクトルが、素敵な偶然によって一瞬重なり合った。付き合うべくして付き合った二人は、その最初の重なり合い(共鳴)を、後から見て「出会い」と呼ぶ。本当は「スタート」であり、「ゴール」なのだ。その共鳴の鮮度は、時間的枠組みに捕らわれないはずだから。初めて会った頃も愛しいし、50年後も愛しい(と思える二人がどれだけいるか知らないけど。)のだ。
「時間」という概念が、私たちの豊かな人生の構築をどれだけ邪魔しているのだろう。私はこれ関係の文献を読んだことが無いので、このことに自力で気付くまでに23年かかった。好きな人と見つめ合っていると時を忘れるとはよく言うけど、最初にそう言い始めた人の感覚はかなり鋭い。「恋愛」とは、「時間」に縛られているが故に発生する"終局"に対する恐怖(死、とかね。)から、解放される行為だ。なのに、その「恋愛」に「時間」の概念をはめ込んでは本末転倒じゃないか。だから「恋愛」は、"終わって"しまう。
私の現状を、「付き合い始めのラブラブ期」(←やだなー、この表現…。)と捉えるのではなく、50年後のものと鮮度としては等しいはずの「共鳴」と捉えよう、と。
ええ、まさに"時間を忘れるような瞬間"に思いついたことだYO!
以上。
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備忘。
●打倒・卒論!
愛について難しいことを考えている場合じゃないんだ。
先日マイ・ラヴァーにメッタ斬りにされた私の論文。「私が考えたこと」・「二次文献で誰かが言っていること」・「史実が書かれている史料」の境目が曖昧だとのご指摘。口語も多すぎるそうだ。きびしいアルヨ。
引用を積極的に活用かつ、「これは〜に書かれていることだが…」という文章を多く取りいれたら、大分すっきりした。残る問題は、「補足」をどれだけ充実したものにするかだ。あまり補足し過ぎても、論文そのものを通して何を言いたかったのかが曖昧になってしまう。
なんしか、がんばろう。
●本日のBGM。
スキマスイッチの『夏雲ノイズ』。
これがファーストアルバムだったのか。とにかく、声がイイ。セカンドアルバムも聴いてみたい。
「奏(かなで)」を聴いて思ったこと。先日、平井堅の「センチメンタル」、槙原敬之の 「answer」を立て続けに聴いたせいでわかったのだが、"駅の改札を挟んで別れる瞬間の切なさ"を題材にした歌というのは、多い。
歌に扱われやすいシーンを集めてみるのも面白そうだ。それこそ時間的枠組みを活用して、「恋愛初期→後期」の順で再生するの。(日本語の曲限定だな。)
わたし:「Aさんは結婚しないんですか?」
A氏 :「ベクトルが重なる相手が見つかったら、するだろうね。」
ベクトルが重なる、というのは、当時は「へえー。」程度にしか思わなかったけど。思えば、私は随分と長い間、「恋愛」をすごろくのようにゴールがあるものだと捉えていたような気がする。最近になって、A氏の発言の底深さがわかってきたような。
スタート(出会い)してから、試行錯誤(2コマ戻る、とかな…。)して、それでもちょびっとずつ進んで、ある地点でチェックポイント(めでたく付き合う)を迎え、また試行錯誤して、ときには別れて(スタートに戻る)しまったり。「恋愛」をそのような時間的枠組みで捉えると、当然ゴールが発生するわけだが、じゃあゴールって何?
ゴールがもしもあるなら、そこに到達するまでは頑張るとして、それ以降はどうなるのだろう。仮に結婚がゴールだとして、二人はネクストステージに進むわけだが、そうなるとまた試行錯誤することになる。じゃあ次のゴールは何になるのだろう、という疑問が当然発生する。「妊娠・出産」か?なんか違うなあ。「死別」だろうか?
時間的枠組みで「恋愛」を捉えると、すべての出来事に一喜一憂するはめになるけど、どうもその考え方はイケてないんじゃないかな、と思う今年の冬。そもそも出会いをスタート地点として捉えるところからして、たぶん違う。
そう、出会った瞬間がゴール地点なんだ。「恋愛」とは、スタートからゴールに到達する一連の流れではなく、ゴールのように見える魂と魂の共鳴を、何度も何度も何度も何度も重ねていく行為を、俯瞰して眺めた"状態"だ。そこにステップや段階のようなものは無い。あくまでも一瞬でしかない共鳴を、何個もかき集めて後から眺めるからそれらがひとまとまりに見えるだけだ。バラバラに切断されたタクアンを、まとめて並べれば一つの大根の原形が想像できるように。
私の人生が未来(こうありたいと思う方向)に向かってまっすぐ伸びているとするなら、私の好きな人の人生も、彼の向かうべき方向へまっすぐ伸びているはず。そのベクトルが、素敵な偶然によって一瞬重なり合った。付き合うべくして付き合った二人は、その最初の重なり合い(共鳴)を、後から見て「出会い」と呼ぶ。本当は「スタート」であり、「ゴール」なのだ。その共鳴の鮮度は、時間的枠組みに捕らわれないはずだから。初めて会った頃も愛しいし、50年後も愛しい(と思える二人がどれだけいるか知らないけど。)のだ。
「時間」という概念が、私たちの豊かな人生の構築をどれだけ邪魔しているのだろう。私はこれ関係の文献を読んだことが無いので、このことに自力で気付くまでに23年かかった。好きな人と見つめ合っていると時を忘れるとはよく言うけど、最初にそう言い始めた人の感覚はかなり鋭い。「恋愛」とは、「時間」に縛られているが故に発生する"終局"に対する恐怖(死、とかね。)から、解放される行為だ。なのに、その「恋愛」に「時間」の概念をはめ込んでは本末転倒じゃないか。だから「恋愛」は、"終わって"しまう。
私の現状を、「付き合い始めのラブラブ期」(←やだなー、この表現…。)と捉えるのではなく、50年後のものと鮮度としては等しいはずの「共鳴」と捉えよう、と。
ええ、まさに"時間を忘れるような瞬間"に思いついたことだYO!
以上。
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備忘。
●打倒・卒論!
愛について難しいことを考えている場合じゃないんだ。
先日マイ・ラヴァーにメッタ斬りにされた私の論文。「私が考えたこと」・「二次文献で誰かが言っていること」・「史実が書かれている史料」の境目が曖昧だとのご指摘。口語も多すぎるそうだ。きびしいアルヨ。
引用を積極的に活用かつ、「これは〜に書かれていることだが…」という文章を多く取りいれたら、大分すっきりした。残る問題は、「補足」をどれだけ充実したものにするかだ。あまり補足し過ぎても、論文そのものを通して何を言いたかったのかが曖昧になってしまう。
なんしか、がんばろう。
●本日のBGM。
スキマスイッチの『夏雲ノイズ』。
これがファーストアルバムだったのか。とにかく、声がイイ。セカンドアルバムも聴いてみたい。
「奏(かなで)」を聴いて思ったこと。先日、平井堅の「センチメンタル」、槙原敬之の 「answer」を立て続けに聴いたせいでわかったのだが、"駅の改札を挟んで別れる瞬間の切なさ"を題材にした歌というのは、多い。
歌に扱われやすいシーンを集めてみるのも面白そうだ。それこそ時間的枠組みを活用して、「恋愛初期→後期」の順で再生するの。(日本語の曲限定だな。)
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