Winter has come!
2005年12月14日卒論、終了。
解き放たれた鳥の如く、大空に舞う。(つまり、遊ぶってこと!)
というわけで、以前から気にしていた映画・『SAYURI』(ロブ・マーシャル監督)を鑑賞。音大の院に通う友人と待ち合わせ、真っ昼間から。レディースデイなのでレディが殺到するかと思いきや、さすが平日、という程度の混み具合。
既に鑑賞した人いわく。"ニッポンが嫉妬するJAPAN"というキャッチフレーズ通り、ハリウッドないしアメリカが抱くステレオタイプな日本を感じた、とのこと。「ハリウッド映画とはなんぞや?」を考えさせられる映画だと言うてたけど、個人的には「そうか?」といった程度。むしろ私は、「アメリカ&日本」の構造ではなく、「男&女」の構造について考えさせられる点が多かった印象だ。
考えたことは二つ。
●『SAYURI』に思う。一つめ。
芸者は、好きな男(初桃にとっては幸市、さゆりにとっては会長)を想うことが許されない。心を無にしたあやつり人形のように、踊って、三味線を弾いて、男の望む「人形」に近づけば近づくほど、芸者の望む幸せが手に入るのだ、と。これは、「女の不自由さ」をテーマにした作品だ。
私はかねがね思っていたのだけど。
そもそも、女は、なぜ"選択"をしなければいけないのだろう。たとえば、初桃が売れっ子芸者という地位を捨てて、幸市との普通の幸せを"選んだ"場合、得られるはずだったものは手に入らない。豆葉姐さんは「それが芸者(女)の生き方よ。」と言った。どちらを選ぶかはその女次第だけど、この"選択"の概念は女に特有のもののように思えるのだが。
『タイタニック』(ジェームズ・キャメロン監督)にも似たようなシーンがあった。家の存続を懸けた結婚を控えるローズが、一文無しのジャックとの交際を禁止されるシーンだ。ローズの母親は、「私たちは女。それが宿命なのよ。」と彼女をたしなめた。
それもこれも、女には「切り札」があるからだ。男が一文無しになったら路頭に迷うところだが、私たちには他にやりようがある。それって、一見、セーフティガードのように思えるけど、それくらいにパワーがある切り札だ。これは現代でも同じ。いつでも覚悟さえ決めれば、おまんまの心配はしなくてもいいのだ。
ただ、それは"選択"を伴う。一生選択を迫られる状況にならなければラッキーだが、前提としてすべての女に「切り札」が配られている以上、意識下に"選択"の概念がそもそもある。
何も生きるか死ぬかという切羽詰まった状況に限らず、女は、究極的には二者択一の問題を抱えているのではないだろうか。それこそ芸者のように、男の望む「いわゆる女」を演じるのか、演じないのか。明らかにこちらを選んでいる、とわかっちゃうような場合は現代では少ないけど、決して消えていない現象だ。社会的地位の獲得を目指すのか、「いわゆる女の幸せ」を選んで勝ち犬になるのか。そして勝ち犬になるためには(男を喜ばせるためには)、元々持っている性質を殺す才能が必要だ。それが、演じるということだ。
●『SAYURI』に思う。二つめ。
さゆりが会長に"惚れた"のは、弱りきった彼女に優しい言葉をかけたからだ。べそをかくさゆりに、(気まぐれだったかもしれない)親切を施した会長。ここから派生して、女が男に"惚れる"理由について考える。(←映画を観ろ。)
なんだかんだいって、衰弱しているときに優しくされると弱いよなあ。そして、「まあ、なんて優しい人!」という思いのパワーは、十分"恋"に発展し得るものだよなあ、と。
弱っているときに選んだオトコ、というと、その選択眼が鈍っていたかのような印象を与える。オトコもまるで弱った隙につけ込んでるみたいだ。冷静だったらどうなのよ、と。でも私はハッとしたのだが、女が"惚れる"べきオトコというのは、そういう気まぐれ親切を頻繁にするホスピタリティの持ち主ということではないか?
つまり、そのオトコが、女が惚れる要素の絶対量を保持しているかどうかの問題ではなく。100点満点中、80点のオトコだったら惚れるけど、20点じゃ惚れない、とかじゃないんだな。20点のオトコに惚れる女がもしいたら、20点分の才能をピンポイントで開花させたに過ぎない。逆を言えば、いくら80点のオトコでも機会に恵まれなければ誰も惚れない。
そう考えると、恋って、やっぱりデスティニー♪
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それにつけても最近寒すぎる!本日、デニムの下にタイツを履いて初登校。
夏と太陽が大好きという暑苦しい私だけど、冬好きが意外に多くて驚いている。冬が好きという人の意見を聞くと、「ピリっとした空気独特の緊張感がイイ。」と。冬の良さがわかる人は、情緒的なのでは?
ただ、「冬が好きだ。」という人と過ごす冬は、いいものかもしれない。
解き放たれた鳥の如く、大空に舞う。(つまり、遊ぶってこと!)
というわけで、以前から気にしていた映画・『SAYURI』(ロブ・マーシャル監督)を鑑賞。音大の院に通う友人と待ち合わせ、真っ昼間から。レディースデイなのでレディが殺到するかと思いきや、さすが平日、という程度の混み具合。
既に鑑賞した人いわく。"ニッポンが嫉妬するJAPAN"というキャッチフレーズ通り、ハリウッドないしアメリカが抱くステレオタイプな日本を感じた、とのこと。「ハリウッド映画とはなんぞや?」を考えさせられる映画だと言うてたけど、個人的には「そうか?」といった程度。むしろ私は、「アメリカ&日本」の構造ではなく、「男&女」の構造について考えさせられる点が多かった印象だ。
考えたことは二つ。
●『SAYURI』に思う。一つめ。
芸者は、好きな男(初桃にとっては幸市、さゆりにとっては会長)を想うことが許されない。心を無にしたあやつり人形のように、踊って、三味線を弾いて、男の望む「人形」に近づけば近づくほど、芸者の望む幸せが手に入るのだ、と。これは、「女の不自由さ」をテーマにした作品だ。
私はかねがね思っていたのだけど。
そもそも、女は、なぜ"選択"をしなければいけないのだろう。たとえば、初桃が売れっ子芸者という地位を捨てて、幸市との普通の幸せを"選んだ"場合、得られるはずだったものは手に入らない。豆葉姐さんは「それが芸者(女)の生き方よ。」と言った。どちらを選ぶかはその女次第だけど、この"選択"の概念は女に特有のもののように思えるのだが。
『タイタニック』(ジェームズ・キャメロン監督)にも似たようなシーンがあった。家の存続を懸けた結婚を控えるローズが、一文無しのジャックとの交際を禁止されるシーンだ。ローズの母親は、「私たちは女。それが宿命なのよ。」と彼女をたしなめた。
それもこれも、女には「切り札」があるからだ。男が一文無しになったら路頭に迷うところだが、私たちには他にやりようがある。それって、一見、セーフティガードのように思えるけど、それくらいにパワーがある切り札だ。これは現代でも同じ。いつでも覚悟さえ決めれば、おまんまの心配はしなくてもいいのだ。
ただ、それは"選択"を伴う。一生選択を迫られる状況にならなければラッキーだが、前提としてすべての女に「切り札」が配られている以上、意識下に"選択"の概念がそもそもある。
何も生きるか死ぬかという切羽詰まった状況に限らず、女は、究極的には二者択一の問題を抱えているのではないだろうか。それこそ芸者のように、男の望む「いわゆる女」を演じるのか、演じないのか。明らかにこちらを選んでいる、とわかっちゃうような場合は現代では少ないけど、決して消えていない現象だ。社会的地位の獲得を目指すのか、「いわゆる女の幸せ」を選んで勝ち犬になるのか。そして勝ち犬になるためには(男を喜ばせるためには)、元々持っている性質を殺す才能が必要だ。それが、演じるということだ。
●『SAYURI』に思う。二つめ。
さゆりが会長に"惚れた"のは、弱りきった彼女に優しい言葉をかけたからだ。べそをかくさゆりに、(気まぐれだったかもしれない)親切を施した会長。ここから派生して、女が男に"惚れる"理由について考える。(←映画を観ろ。)
なんだかんだいって、衰弱しているときに優しくされると弱いよなあ。そして、「まあ、なんて優しい人!」という思いのパワーは、十分"恋"に発展し得るものだよなあ、と。
弱っているときに選んだオトコ、というと、その選択眼が鈍っていたかのような印象を与える。オトコもまるで弱った隙につけ込んでるみたいだ。冷静だったらどうなのよ、と。でも私はハッとしたのだが、女が"惚れる"べきオトコというのは、そういう気まぐれ親切を頻繁にするホスピタリティの持ち主ということではないか?
つまり、そのオトコが、女が惚れる要素の絶対量を保持しているかどうかの問題ではなく。100点満点中、80点のオトコだったら惚れるけど、20点じゃ惚れない、とかじゃないんだな。20点のオトコに惚れる女がもしいたら、20点分の才能をピンポイントで開花させたに過ぎない。逆を言えば、いくら80点のオトコでも機会に恵まれなければ誰も惚れない。
そう考えると、恋って、やっぱりデスティニー♪
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それにつけても最近寒すぎる!本日、デニムの下にタイツを履いて初登校。
夏と太陽が大好きという暑苦しい私だけど、冬好きが意外に多くて驚いている。冬が好きという人の意見を聞くと、「ピリっとした空気独特の緊張感がイイ。」と。冬の良さがわかる人は、情緒的なのでは?
ただ、「冬が好きだ。」という人と過ごす冬は、いいものかもしれない。
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