冬の備忘

2005年12月27日
12月27日の読書メモ。

内田樹の『知に働けば蔵が建つ』をようやく読了。

ウチダ先生を薦めてくれたのは他ならぬマイ・ラヴァーだが、別に彼に忠義立てするわけじゃなく、「この人の言うことには納得できるなあ。」と、読み進めている段階でも思ったし、読んだ後も思っている。最近にしては珍しく、言説に信頼感を置ける大人だと思う(小娘が何を言うかって感じ?)。

つまり、図で示すと、「私→マイ・ラヴァー→ウチダ先生」ってな具合だ。この場合の矢印はリスペクト&共感のベクトルだが、便宜上、一方通行にせざるを得ない(なぜなら、ウチダ先生は、私のこともマイ・ラヴァーのこともおそらくってか絶対知らないので、逆向きはあり得ないのだ)。が、私は、このベクトルがたぶん相互通行の可能性を秘めたものに違いない、と勝手かつ図々しくも思っている。

かねがね不思議に思っていたのだが。

たとえば、サッカーの試合中に雷撃を受けた生徒と親が教師(監督)に責任を追及したり、または階段で滑った児童の親が滑るような階段を放置しておいた学校側に文句をつけたり、という一連の「責任追及」の姿勢にウチダセンセが「?」と思ったように、私も「?」と思うし、おそらくマイ・ラヴァーも「?」と思うんじゃないかな。

そういう多くの「?」を抱えたまま私は生きているのだけど、不思議なことに、当の「?」的行動をしている人にはあまり会ったことが無い。小泉首相がメディアでは散々叩かれているのに、いざ支持率を出せば「支持層」を発見できるのと似ている。「俺は小泉を断固支持するー!」という人が周りにはほとんどいないのに、選挙の結果、彼は確固たる地位を築けているのよね。不思議。

「価値観が似ている」って簡単に皆言っちゃうけど、私が気づいたのは、「私はスパゲッティが好き!」と言えば、多くのスパゲッティ好きが集まるから、たぶんそういうプラス姿勢の意見だけでは、本当のところの価値観を計測できない。そうじゃなくて、当然のようにフォークでスパゲッティを食べているときに、隣で箸を使いながらそばのようにスパゲッティを食べ始めた人が現れたとき、「?」と思うのだろう。つまり、自分の中ではすっかり当たり前になっている部分が根本的に違う人への「?」。それはしばしばマイナス要素を孕む。

「これがイイ!」じゃなくて、「これはナシだろう…。」という部分が一致している人を、話し相手として選ぶ傾向が、私にはある。厄介なのは、私とマイ・ラヴァーの「これはナシだろう…。」という部分はまあまあ一致している(た、たぶんな。)のに、すっかりそれに慣れてしまうと、それこそスパゲッティを食べるときのフォークの角度、とかで言い争いを始めてしまうのだろうな、と。そんな、そもそも、箸で食べてないだけマシじゃないの、ってことに気づかなくてはいかん。

つまり、人と人が惹かれ合うときは、「おっ、キミもスパゲッティはフォークかい?」「やん、アナタもそうなんですかっ?」って感覚がたぶん大事だけど、それ以降も、そもそも箸じゃないフォーク感覚を共有してることを尊いと思う気持ちを、忘れてはいけないのだろう。(さっきからスパゲッティを例としてるけど、ほんとあくまで例だよ?)

「でもさー、なんだかんだでみんなスパゲッティはフォークだよ?」という意見があるのもごもっともだが、実は、私はスパゲッティを箸で食べるような人とかなり長い時間一緒にいたことがあり、試しに私も箸を使ってみるなど、努力っぽいことをしたこともあるのだ。が、たしかに人と人は異なる部分を摺り合わせて生きていけるけれど、それによって生じるストレスがあり、いざというとき、リスキーな埋められない溝として存在感を増す。と、思う。

ウチダセンセを「イイなあ。」と思っているはずのマイ・ラヴァーに薦められ、同著を手に取り、私も「イイなあ。」と思ったことは、箸はナシよね、っていう部分を改めて認識し合った(し合ったっていうか、私が一方的に笑)という点で、大きい。というわけで、別にフォークの角度にケチをつけなくてもいっか、という、なんだか優しい気持ちになったわけだ。

ただ、「現代においては「内輪」における親密感、一体感が過剰になると同時に「外側」に対する排他性・暴力性も過剰になっている。」とウチダセンセが指摘する通り、こういったフォーク感を共有できることをただ喜んでいるだけでは「他者」への想像力が枯渇する一方なので、気をつけなきゃいけないのだろう。

ノロケっぽくなりつつも(読書メモじゃなかったのか)、最後はイイ感じで終わらせてみた。

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