文系女のロマンチシズム
2005年12月29日今年最後のノロケ、じゃなくて、今年最後の読書メモ。
小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮社)読了。年末用にと、私専用の図書館で借りてきた本のうちの一冊。
断言してもいいが、私は、今コレを読んでいるアナタより数学(含算数)ができない自信がある。
そうはいってもおまえは大学生じゃないか、という意見が出るだろう。そう、私は大学生だ。自慢じゃないが、私は、自分の数学の出来なさを数値化して、それがあっても入学できる限界値ギリギリを探して滑り込んだつもりだ。高校時代、学年でただ一人、数学Aの単位を落とした。こうなってくると、最早、自慢だ。
最近わかってきたのだが、数学のできる人(いわゆる理系)と、私(いわゆるまごうかたなき文系)の脳構造は、どこか違うのではないだろうか。単純な計算をするときほど、私はそう思う。昔、両親に、「ゼロの手前はアルファベットなの?」と聞いたことがある。当時(4歳位かな?)不思議に思った感覚を、あれから20年経っても、私は鮮やかに覚えている。
数字を、言語(文字)と同じ領域で認識していたのだ。数字とは、平仮名のように、無秩序に見える記号の羅列だと。あいうえお、かきくけこ…と連なる平仮名を、私はビジュアルで捉えていて("あ君"の次に"い君"がいる。って感じで。)、その隊列の後ろと前には何があるのだろう、と。幼い私は、平仮名の最後尾である"ん君"の後ろには、漢字君たちが並んでいると考えたんだ。そして、最前の"あ君"の前には数字君たちがいて、その数字君たちの最前(ゼロ)の更に前には、アルファベット君の隊列があるのだと。
私の頭の中には数直線(隊列の名残だね。)があって、たとえば「26+17」の計算をする際は、数直線の一点である26を起点とし、17右に移動する。イメージとしては、こんな感じ。でも、多分だけど、数学が得意な人はこのようなイメージで計算してないはずなんだ。あまり分類するのは好きじゃないけど、文系の私は、世界を切り取るときにいつも「文字」を用いており、そのシステムが確立されてしまった今、理系の人とは違う世界を目に映している気さえする。
そんな私がこの本を読んで思ったこと、「数学のロマンチックさ」について。
法則はあっても、その法則は気まぐれで、たとえば素数(1と自分自身でしか割れない数)は、1、2、3、5、7…と数字が小さいうちは簡単に見つかるけど、100を越えると途端に発見し辛くなる。どういう順序で、どういうタイミングで出てくるのか、その気まぐれさを、主人公の家政婦や息子や博士は、「神様の手帳に書かれたこと」と表現した。その「神様の手帳」を解読する作業が、数学者の仕事なのだ、と。
もちろん、素数に限らず、数字にはすべてに真実(神様の意図)があるのだけど、途方も無いほど深淵なものがほとんどで、それに法則を見いだせれば「公式」となる。そして、真実が見つかった瞬間を、家政婦さんは「無惨に踏み荒らされた砂漠に、一陣の風が吹き抜け、目の前に一本の真っさらな道が現れた。」と表した。そう、「神様の手帳」は難解ではあるけど、答えが見つかるようにはなっているのだろう。
気付いたのだが、私の求める究極のロマンチシズムは、数学がロマンチックだといわれる所以とは、まったく逆の方向にある気がしてならない。完全な真実が崇高なものとして存在する数学は、たしかにロマンチックではあるけど、私は、究極的には、真実のように見えるものが本当は真実ではないことを発見する方向に向かっている気がするから。
私が、「これは絶対だ!」とか、「これが真実だ!」という言い方をすると、マイ・ラヴァーはたしなめる。私がAという真実を打ち出すと、彼はシーソーのように、Aを端とした支点を測ってもう一つの端であるBを明らかにし、その中間点(AでもBでもないもの)が好きだ、と言う。私は「ずるいよ、そんなの。」といつも思う。そして、私の愛する人は、「中間点である支点など、実は存在しない。」と言った(焼肉を食べながら笑)。なぜなら、「点」とはどこまでいっても概念でしかないからだ。
中間点を愛す彼は、極端なA派でもないしB派でもない。真実のように見える何かにぶち当たっても、いつでも概念たる中間点を模索しているように見える。概念でしかないのだから、どれだけ中間点に近づいたように見えても、彼と点が完全に一致することはないのだ。
数学でいえば、難解な問題に取り組みつつもその努力を継続できるのは、必ず真実が出るはずだという前提があるからだ。「答えがありませんよ。」と言われているにも関わらず、彼は黙々と(たぶん、一生をかけて)問題に取り組み続ける。その姿は、数学者が正解を求めて奮闘するのと同じか、私の中ではそれ以上に、美しく、色っぽく見えるのだ。
読書メモなのに、いつもノロケになってしまう(←悩み)。
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備忘。
●本日の肉体美化メニュー。
ブランチ:ハムトースト、無農薬みかん、コーヒー牛乳
夜 :「点天」の餃子、肉じゃが、ネギとワカメの味噌汁、
ごはん、 卵かまぼこ、キムチ、麦茶
全然、普通じゃん。いやいや、記録するのが大事なんだ。
小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮社)読了。年末用にと、私専用の図書館で借りてきた本のうちの一冊。
断言してもいいが、私は、今コレを読んでいるアナタより数学(含算数)ができない自信がある。
そうはいってもおまえは大学生じゃないか、という意見が出るだろう。そう、私は大学生だ。自慢じゃないが、私は、自分の数学の出来なさを数値化して、それがあっても入学できる限界値ギリギリを探して滑り込んだつもりだ。高校時代、学年でただ一人、数学Aの単位を落とした。こうなってくると、最早、自慢だ。
最近わかってきたのだが、数学のできる人(いわゆる理系)と、私(いわゆるまごうかたなき文系)の脳構造は、どこか違うのではないだろうか。単純な計算をするときほど、私はそう思う。昔、両親に、「ゼロの手前はアルファベットなの?」と聞いたことがある。当時(4歳位かな?)不思議に思った感覚を、あれから20年経っても、私は鮮やかに覚えている。
数字を、言語(文字)と同じ領域で認識していたのだ。数字とは、平仮名のように、無秩序に見える記号の羅列だと。あいうえお、かきくけこ…と連なる平仮名を、私はビジュアルで捉えていて("あ君"の次に"い君"がいる。って感じで。)、その隊列の後ろと前には何があるのだろう、と。幼い私は、平仮名の最後尾である"ん君"の後ろには、漢字君たちが並んでいると考えたんだ。そして、最前の"あ君"の前には数字君たちがいて、その数字君たちの最前(ゼロ)の更に前には、アルファベット君の隊列があるのだと。
私の頭の中には数直線(隊列の名残だね。)があって、たとえば「26+17」の計算をする際は、数直線の一点である26を起点とし、17右に移動する。イメージとしては、こんな感じ。でも、多分だけど、数学が得意な人はこのようなイメージで計算してないはずなんだ。あまり分類するのは好きじゃないけど、文系の私は、世界を切り取るときにいつも「文字」を用いており、そのシステムが確立されてしまった今、理系の人とは違う世界を目に映している気さえする。
そんな私がこの本を読んで思ったこと、「数学のロマンチックさ」について。
法則はあっても、その法則は気まぐれで、たとえば素数(1と自分自身でしか割れない数)は、1、2、3、5、7…と数字が小さいうちは簡単に見つかるけど、100を越えると途端に発見し辛くなる。どういう順序で、どういうタイミングで出てくるのか、その気まぐれさを、主人公の家政婦や息子や博士は、「神様の手帳に書かれたこと」と表現した。その「神様の手帳」を解読する作業が、数学者の仕事なのだ、と。
もちろん、素数に限らず、数字にはすべてに真実(神様の意図)があるのだけど、途方も無いほど深淵なものがほとんどで、それに法則を見いだせれば「公式」となる。そして、真実が見つかった瞬間を、家政婦さんは「無惨に踏み荒らされた砂漠に、一陣の風が吹き抜け、目の前に一本の真っさらな道が現れた。」と表した。そう、「神様の手帳」は難解ではあるけど、答えが見つかるようにはなっているのだろう。
気付いたのだが、私の求める究極のロマンチシズムは、数学がロマンチックだといわれる所以とは、まったく逆の方向にある気がしてならない。完全な真実が崇高なものとして存在する数学は、たしかにロマンチックではあるけど、私は、究極的には、真実のように見えるものが本当は真実ではないことを発見する方向に向かっている気がするから。
私が、「これは絶対だ!」とか、「これが真実だ!」という言い方をすると、マイ・ラヴァーはたしなめる。私がAという真実を打ち出すと、彼はシーソーのように、Aを端とした支点を測ってもう一つの端であるBを明らかにし、その中間点(AでもBでもないもの)が好きだ、と言う。私は「ずるいよ、そんなの。」といつも思う。そして、私の愛する人は、「中間点である支点など、実は存在しない。」と言った(焼肉を食べながら笑)。なぜなら、「点」とはどこまでいっても概念でしかないからだ。
中間点を愛す彼は、極端なA派でもないしB派でもない。真実のように見える何かにぶち当たっても、いつでも概念たる中間点を模索しているように見える。概念でしかないのだから、どれだけ中間点に近づいたように見えても、彼と点が完全に一致することはないのだ。
数学でいえば、難解な問題に取り組みつつもその努力を継続できるのは、必ず真実が出るはずだという前提があるからだ。「答えがありませんよ。」と言われているにも関わらず、彼は黙々と(たぶん、一生をかけて)問題に取り組み続ける。その姿は、数学者が正解を求めて奮闘するのと同じか、私の中ではそれ以上に、美しく、色っぽく見えるのだ。
読書メモなのに、いつもノロケになってしまう(←悩み)。
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備忘。
●本日の肉体美化メニュー。
ブランチ:ハムトースト、無農薬みかん、コーヒー牛乳
夜 :「点天」の餃子、肉じゃが、ネギとワカメの味噌汁、
ごはん、 卵かまぼこ、キムチ、麦茶
全然、普通じゃん。いやいや、記録するのが大事なんだ。
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