A peaceful new year!

2006年1月1日
謹賀新年。

新春ということで、今年、何度も見返すべき内容の日記を書こう。2006年最初の読書メモを兼ねつつ、さあ今年どうすべきかいな、と。それにしても、正月は、読書がはかどる。

コタツでうだうだしながら、内田樹&春日武彦の『健全な肉体に狂気は宿る-生きづらさの正体』(角川書店)読了。

ウチダセンセに関しては、著作を一冊読んだだけ(今回は共著だが、なんにしても二冊目だ。)ではあるが、んもう、本当に背筋がゾクゾクするようなことばかりおっしゃって、素直でない私は「あ、あ、あ、それ、私が先に言おうと思ってたのに!!」と、むしろ悔しくなることの方が多い。という位に、私が日々煮詰めていること(私の心の中が見えてるの?ってほどに)を、スーッと言葉にしてくださる。


●取り越し苦労はもうやめよう。

「最悪のことを考えて、あらかじめいろいろな策をきちんと講じておくと、そういうふうに最悪の場面に備えて対策を講じていた自分の努力に「報いてあげたい」と思うようになるんです。せっかく最悪の事態に備えたのに、最悪の事態が到来しないんじゃ、取り越し苦労した甲斐がない。だから、取り越し苦労する人は、その最悪の事態の到来を願うようになるんです。」

なるほど、と思う。ウチダセンセは、「宿命」についても、著書『知に働けば蔵が建つ』やご自身の12月のブログで面白いことをお書きになっており、「宿命」を感じることのできる人間というのは、事前に詳細な想像力を働かせている、と。

つまり、「こんな人と付き合いたいなあ。」という願望を、細部まで詳細に想像している人は、それこそ「自宅のトイレに『若草物語』を置いているような人と付き合いたい。」というところまで考えており、そういう人は、ある日たまたま訪れた男性(ちょっといいなと思ってた)の家で本当に『若草物語』を発見し、「宿命」を感じることができる、と。彼の家に『若草物語』があること自体は、まったくの偶然だ。そう、私たちの人生の出来事は偶然に過ぎないのだが、100通りの想像をめぐらせている人は、たまたま起こった出来事でも1/100として事前に一度考えているので、「宿命」と思えるのだと。

この「宿命論」と、「取り越し苦労をするな。」という論を両方とも論じるウチダセンセは、一見矛盾している。

「一寸先は闇」ということに関して、私も先日(12月17日)書いた。つまり、取り越し苦労とは、一寸先は闇という事実に対し、もしかしたら一寸先はバラ色という可能性を一切無視することだ。そうではなく、未来の不確定性に対しネガティブでもポジティブでもないスタンスを保ちつつ、それでも想像だけはしておけ、と。そうすれば、いざ良いことが起こったときに「生きてて良かった。」と思えるのだろう。


●ことばの力。

「うっかり「愛してる」と言ってしまった人は「あ、『愛してる』って言っちゃった…困ったなあ。言った以上は愛してるふりでもしないとまずいよなあ」というふうに考える。なんとか言ったことばと行動のつじつまを合わせようとする。(…)「愛してる」とはどういうことかなんて、誰にもわかりっこない。わからないからこそ、「愛してる」とまず言ってみて、それから「愛している」っていうのは、こういうことかな、ああいうことかなといろいろ考えながら「後づけ」してゆくものでしょう。」

10月19日の日記で書いた通り、私も「あいしてる」と言うべきだと思う。(なんてことをここに書くと、まるで自分の性癖を晒しているようで居心地が悪いな…。)そして、「あいしてる」と言ってくれる人が好きだ。(ということをここに書くのも…以下略。)

えーと、つまり、私も「ことばの呪力」というものについてウンウン考えているときがあり、それをウチダセンセ&春日センセがスッキリ言語化してくれたおかげで、なんちゅうか、とっても腑に落ちる気がしたわけで。「言霊」などと言うとオカルトめいているけど、人は発言したことに関しては責任をとろうとする傾向があるので、現実はことばに追従しがちなのだ。

「良くない」とわかっているのに口に出してはいけない、ということだね。


●端っこにいれば、いつでも逃げ出せる。

「マジョリティに対する自分の立ち位置がどこか、という問題ですよね。ほとんど人は生存戦略上「マジョリティと行動をともにする」という選択をするわけですね。その方が生き延びる確率が高いから。(…)ただね、群れが遭遇するリスクは「一頭のライオンに襲われる」という場合だけじゃないでしょ。群れ全体が、ライオンに追われながら崖っぷちに向かって走っているとか、ハイエナの大群めざしているということもあるわけで。そういうときは群れから外れて逃げる方がむしろ生き延びる確率が高いということだってある。この見きわめが難しい。」

そうなのだ。マジョリティの中にいれば絶対に安心だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことは、そもそも考えていない。私の人生は、今まで、とりあえずマジョリティの中にいれば(むしろどっぷり浸かっていたような)大きな失敗をせずに済んだ。

しかし、これからもそううまくいくとは限らないだろう。「マジョリティの端っこに立つ」ということが具体的にはどのようなことなのか、そこらへんが私にはまだわからないけど、念頭に置いておかなければなあ、と思う。


●その他。

一年の計は元旦にあり。本からではなく、自分で考えたことをいくつか。

・「リスペクト」について。
私は、ウチダセンセのような知識人を尊敬しているけど、彼の著書を盲信すること自体どうなんだろう。そして、同じように、マイ・ラヴァーや年上の友人たちの言うことにただ従うのではだめだな、きっと。今年はそこらへんを考えていきたい。

・社会人として一人前になる。
さて、どうなることやら。とりあえず、上司や同僚のQuestionに対し、ちゃんとAnswerできるようにしたい。年末、諸々の幹事を務めるうちに私は気づいた。「○月○日までにこれこれについて教えてください。」と言っているにもかかわらず、期限を守らないのは論外だ。そして、「○○について」と言っているにもかかわらず、ちっとも具体的じゃない返答(今、色々と進めてます〜、とかな。)をするのもアカン。

こんなもんか。

皆様、今年もよろしくお願いいたします。



今晩は大阪から届いたてっぽうで、てっちり。顔がフグのようになるまで食べて食べて食べまくろう。

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