マイ・インデペンデンス・デイ
2006年1月10日「独立」というものの意味について考えている。
私は原田宗典がとても好きで、中学・高校時代はアホみたいに読み漁った。彼の作品で、『黄色いドゥカと彼女の手』(角川書店)というものがある。冒頭に、主人公が「今思えば、ぼくはあの瞬間に大人になった気がする。」と語るシーンがあり、幼かった私は「ほほう。」と思ったのだ。
同じく彼のエッセイにて。著作が多いのでタイトルは忘れてしまったが、著者の父親が賭博で借金を抱え込み生活が苦しくなった頃、東京の大学に通う原田さんの元に、母親から「これからは満足に仕送りできないから、なんとか頑張ってください。」という旨の手紙が届いたという。それを見た瞬間、唐突に大人になる覚悟ができたというのだ。
原田さんの場合、東京で一人暮らしをしながら、学費も生活費もすべて自分で稼いでいたというのだからスゴイ。たしかにこれは「独立」以外の何物でもない。
親元を物理的に離れることが「独立」の定義の一つなら、私は実家で暮らしているので独立したとは言い難い。春までは学費を出してもらっている身分だし、食費も母の財布の中だ。独立していない。
では、一人暮らしをしている人(私の周りにもいる)は独立しているのだろうか。そうともいえない。
何が言いたいかというと、私は、のっぴきならない事情により、早急に「独立」を迫られているということ。そして、この場合の「独立」は、一人暮らしを始めることでも、食費のすべてを自分で賄うことでもない。むしろ逆で、今まで以上に家庭というコミュニティに対し、果たさなくてはいけない事柄が増えるのだ。大学を卒業する年とたまたまリンクしているけど、いずれはこういう日が来るだろうと私は常々考えながら育ったから、実はそこまで驚いていない。
両親の老いた様子を受け入れること。それが独立するということだ。
たとえば、私は三人家族なので、生まれたときは「一番:父、二番:母(仕事を持っていないので)、三番:私」という序列があり、大きくなって私が色々とできるようになっても、基本的なこの序列は変化することがなかったんだ。両親の老いた様を受け入れるということは、この序列をぶち壊して、「一番:父、母、私」という新しいものにするということ。家庭に起こる様々な問題を、手伝うのではなく、同じフィールドで一緒に考えていかねばならないということ。
弱い姿を見せる父と母に対して、最近までは「どうしちゃったのよ、しっかりしてよ。」と思っていたけど、それというのも彼らに頼りたい自分がいたからだ。本音を言えばもう少し頼っていたかった。が、とにもかくにも、それはできなくなっちゃったのだよ。
ときに「浮世離れしている」と言われるほどに社会のことを知らない私だけど、なんだかんだで人並みに勉強はしたし、今は体も丈夫だし、少々のことがあっても「なにくそ」と思える根性はあるし。両親に感謝すべきことがあるなら、どこでも眠れる図太さと、何でも食べられる許容性と、些細なことにワクワクできる感受性を持てるようになったので、そのような教育を施してくれてありがとう、と。もう役目は終わった(教育期間は終わった)から、あとは自分たちが少しでも快適に生きていく方法を二人で探してほしいと思う。
ま、今日を機に独立したからといって、何が変わるというわけでもないのだが。
そして、「こんな私が独立?」という気もやはりしなくはないけど、準備を万全に整えてから受験日を迎える受験生がいないように、どこかでラインを引かないとね。
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備忘。
●大学生活の締め括り。
最後の授業らしい授業は、教授の気まぐれにより休講。
●ヘレン・フィッシャーの『人はなぜ恋に落ちるのか 恋と愛情と性欲の脳科学』(ソニー・マガジンズ)
タイトルを見た瞬間に購入した本。ようやく半分まで読んだところ。
んもう、目次からして興味深い。「性欲と恋愛感情はべつのもの」「人はいつから恋の詩をつくるようになったのか」「人間は恋をするために進化した動物である」「そして、恋を語り合う言葉が生まれた」「それでも人は恋に落ちる」…などなど。キャーキャー言いながら読んでいる(心の中で)。
なんでも、人に「愛している」と言わせるものは、相思相愛になりたいという強烈な「衝動」であると。つまり、これは事実を宣言しているのではなく、確認を求めているのだと。恋する人間は、「ぼくも(わたしも)愛している」という相手の返事を期待しているのだと。(by哲学者ロバート・ソロモン)
わー、面白いぞー!早く読み終えよう。
私は原田宗典がとても好きで、中学・高校時代はアホみたいに読み漁った。彼の作品で、『黄色いドゥカと彼女の手』(角川書店)というものがある。冒頭に、主人公が「今思えば、ぼくはあの瞬間に大人になった気がする。」と語るシーンがあり、幼かった私は「ほほう。」と思ったのだ。
同じく彼のエッセイにて。著作が多いのでタイトルは忘れてしまったが、著者の父親が賭博で借金を抱え込み生活が苦しくなった頃、東京の大学に通う原田さんの元に、母親から「これからは満足に仕送りできないから、なんとか頑張ってください。」という旨の手紙が届いたという。それを見た瞬間、唐突に大人になる覚悟ができたというのだ。
原田さんの場合、東京で一人暮らしをしながら、学費も生活費もすべて自分で稼いでいたというのだからスゴイ。たしかにこれは「独立」以外の何物でもない。
親元を物理的に離れることが「独立」の定義の一つなら、私は実家で暮らしているので独立したとは言い難い。春までは学費を出してもらっている身分だし、食費も母の財布の中だ。独立していない。
では、一人暮らしをしている人(私の周りにもいる)は独立しているのだろうか。そうともいえない。
何が言いたいかというと、私は、のっぴきならない事情により、早急に「独立」を迫られているということ。そして、この場合の「独立」は、一人暮らしを始めることでも、食費のすべてを自分で賄うことでもない。むしろ逆で、今まで以上に家庭というコミュニティに対し、果たさなくてはいけない事柄が増えるのだ。大学を卒業する年とたまたまリンクしているけど、いずれはこういう日が来るだろうと私は常々考えながら育ったから、実はそこまで驚いていない。
両親の老いた様子を受け入れること。それが独立するということだ。
たとえば、私は三人家族なので、生まれたときは「一番:父、二番:母(仕事を持っていないので)、三番:私」という序列があり、大きくなって私が色々とできるようになっても、基本的なこの序列は変化することがなかったんだ。両親の老いた様を受け入れるということは、この序列をぶち壊して、「一番:父、母、私」という新しいものにするということ。家庭に起こる様々な問題を、手伝うのではなく、同じフィールドで一緒に考えていかねばならないということ。
弱い姿を見せる父と母に対して、最近までは「どうしちゃったのよ、しっかりしてよ。」と思っていたけど、それというのも彼らに頼りたい自分がいたからだ。本音を言えばもう少し頼っていたかった。が、とにもかくにも、それはできなくなっちゃったのだよ。
ときに「浮世離れしている」と言われるほどに社会のことを知らない私だけど、なんだかんだで人並みに勉強はしたし、今は体も丈夫だし、少々のことがあっても「なにくそ」と思える根性はあるし。両親に感謝すべきことがあるなら、どこでも眠れる図太さと、何でも食べられる許容性と、些細なことにワクワクできる感受性を持てるようになったので、そのような教育を施してくれてありがとう、と。もう役目は終わった(教育期間は終わった)から、あとは自分たちが少しでも快適に生きていく方法を二人で探してほしいと思う。
ま、今日を機に独立したからといって、何が変わるというわけでもないのだが。
そして、「こんな私が独立?」という気もやはりしなくはないけど、準備を万全に整えてから受験日を迎える受験生がいないように、どこかでラインを引かないとね。
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備忘。
●大学生活の締め括り。
最後の授業らしい授業は、教授の気まぐれにより休講。
●ヘレン・フィッシャーの『人はなぜ恋に落ちるのか 恋と愛情と性欲の脳科学』(ソニー・マガジンズ)
タイトルを見た瞬間に購入した本。ようやく半分まで読んだところ。
んもう、目次からして興味深い。「性欲と恋愛感情はべつのもの」「人はいつから恋の詩をつくるようになったのか」「人間は恋をするために進化した動物である」「そして、恋を語り合う言葉が生まれた」「それでも人は恋に落ちる」…などなど。キャーキャー言いながら読んでいる(心の中で)。
なんでも、人に「愛している」と言わせるものは、相思相愛になりたいという強烈な「衝動」であると。つまり、これは事実を宣言しているのではなく、確認を求めているのだと。恋する人間は、「ぼくも(わたしも)愛している」という相手の返事を期待しているのだと。(by哲学者ロバート・ソロモン)
わー、面白いぞー!早く読み終えよう。
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