黄金律でシアワセになる!
2006年1月12日10日付の朝日新聞夕刊より。
「新・欲望論」の第三回。中村うさぎが持論を展開している。ブランド物やホストや美容整形にうつつを抜かした彼女が、最終的に得た教訓は、「金で満たせる欲望には、必ず限界が来る」というものだったそうで。
消費の快感とはすなわち「欲望を満たす快感」であるから、欲望の対象を獲得した途端にそれは欲望の対象ではなくなる。その虚しさから逃れるために、次から次へと新しい欲望の対象を追い求めても、最果てには「ついに欲しい物がなくなってしまう」という欲望の砂漠化しか存在しない、と。彼女自身、「金なんて無価値だ」というつもりはまったくないそうで(金で買える幸せはある、と語っている。)、ただ、その幸せには限りがある、と。
彼女の下した結論は、現代人の究極の欲望、つまり私たちの欲望の最終的な対象は、「自分という幻想」だと。株を買い占めるIT社長も、己の領地を広げることで自己の存在意義を拡張したような幻想に浸っている、と、うさちゃんは語る。うさちゃんが根源的に欲しがっていたのは、「価値ある私」だったのだと。(結論に至ったプロセスはとりあえず省略する。)
ちょっと話は変わって、今度は、本日(12日)の朝刊・文化欄より。
見出しは「ああ、セレブ…」。年収一千万円以上、有名大卒、医師などの職業に就いている、などの制限をくぐり抜けた男性と出会える「お見合いパーティ」に関する記事。噂には聞いていたけど、「上流」を目指す女性たちは本当に多くいるのだなあ、と再確認した。
よくわからん(いや、まあ、ちょびっとはわかるけど)のは、「上流」を目指す彼女らの最終目標は一体何だろう、ということ。えーと、そういうハイソサエティな男性と結婚すると、綺麗な洋服が買えて、おいしい物が食べられて、旅行にも行けて…ってことになるのだと思うけど(ここまで列挙して、おお、いいなあ!と思ってしまったぞ笑)、そういう生活をゲットしてもなお消えない欲望の終着点は何だろう。それとも、ハイソな男性と結婚することそれ自体が終着点なのだろうか。
またまた話は変わる。昨日(水曜日)の「トリビアの泉」より。
どら猫にお魚をくわえさせる実験をしていた。空き地に放置された魚(野良猫にとっては高級魚!)は、まさに「まな板の上のマグロ」だ。軽量の鰺などはいとも簡単に持ち去られるも、キロ単位のカツオやマグロは猫にとって強敵だ。が、貪欲などら猫は、自分の体よりも大きいそれの尻尾をくわえ込み、巨体を振り回すかのごとく体勢を変え、悠然と去っていった。
私が朝日新聞の二つの記事を読んで覚えた「違和感」の出所がわかった。
猫ちゃんたちは、目の前の魚(欲望の対象)に夢中で、その欲望の終着点がどんなものかなんて、おそらく知ったこっちゃない。そして魚を獲た後も、かなり長い間幸福感に浸り続けるだろう。猫ちゃんの人生(猫生)において、高級魚をゲットできる回数なんてたかが知れているからだ。そう、問題は、「頻度」なんだ。
中村うさぎのように、欲望の終着点を考えてしまうほどの生活(つまり、消費の多い生活)を送っていると、欲望自体を考察することになってしまう。物欲というものは、大晦日に除夜の鐘を叩いてぶっ飛ばさなきゃいけない煩悩だから、できるだけ目を背けていた方が幸福なのだろう。ガチンコで戦っちゃいけない。
どうしてかはわからないけど、私は、たとえ下品と揶揄されても、生きていくために貪欲であり続けるどら猫が滅多に手に入らない魚にかぶりつく様は、なんだか美しいと思ってしまうんだ。
上品であることを追求すること、つまり上流であろうとすること、それらを包括したものが「セレブになりたい」という要求だと思うけど(余談だが、私の定義する「上流」は金を持っているとはまた違う意味合いだ。ま、その話はまた今度。)、私はたまーにしか得られない幸福に「ひゃっほう!」と喜んでいる瞬間が好き。
「ひゃっほう!」と喜べるということは、表裏一体で、ときに不幸な状態を持つということ。セレブを横目に指をくわえながら、なぜ自分はそれらが手に入らないのだろうと悲しむ瞬間があるということ。そうした不幸な状態をどうにか乗り越えられるだけの体力は必要だ。
ただ、神様が設定した「幸不幸のバランス」の黄金律があるなら、私は不幸(とは思ってないんだけどね、実際)を味わう代わりに、この世にはとても大きな幸せがあることを、かなり幼い頃に知ったような。そして、その黄金律を保っていくことがこれからもできるなら、私は現時点で味わっているとんでもない幸福が一生続いていくような気さえするし、それなら生きていくのも悪くないと思う。
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備忘。
●魚の三枚おろし。
初めて魚(鰺)をおろしてしまった。
立て塩にくぐらせ、包丁も濡らす。まずゼイゴ(尻尾に近いギザギザしたやつ)を取り除く。胸ビレを立てて頭をやや斜めに落とし、腹を裂いて内臓を取り出す。このときに血合いをこそぎ落としておかないと、臭みが残る。もう一度立て塩の中で洗い、水気をしっかりと拭く。三枚にするのは、それから。塩を振っておくのを忘れずに。
本日は、皮からはがした身を包丁で粘りが出るまで叩き、つみれを作ってみた。だしとごぼうと赤みその「つみれ汁」。
ただ、疲れていかんな、これは。(疲れないってのは、定番メニューになる上での重要なポイントだ。)
●おかあさんの肉じゃが。
定期的に通っている料理教室では、以前に「豚のショウガ焼き」も教わった。本日、肉じゃがを作ることにより判明したが、レシピが薄味傾向だ。
思うに、薄味でお上品な料理というのは、(好みもあるけど)あまり労働者向きではないな。私の場合、「ゴハンがすすむー!おかわりー!」というタイプの味付けが好きとわかったので、自宅で料理をするときはその方向でいこうと思う。
もしや、私が大食いになったのは、濃い味付けを好む母のせい?
「新・欲望論」の第三回。中村うさぎが持論を展開している。ブランド物やホストや美容整形にうつつを抜かした彼女が、最終的に得た教訓は、「金で満たせる欲望には、必ず限界が来る」というものだったそうで。
消費の快感とはすなわち「欲望を満たす快感」であるから、欲望の対象を獲得した途端にそれは欲望の対象ではなくなる。その虚しさから逃れるために、次から次へと新しい欲望の対象を追い求めても、最果てには「ついに欲しい物がなくなってしまう」という欲望の砂漠化しか存在しない、と。彼女自身、「金なんて無価値だ」というつもりはまったくないそうで(金で買える幸せはある、と語っている。)、ただ、その幸せには限りがある、と。
彼女の下した結論は、現代人の究極の欲望、つまり私たちの欲望の最終的な対象は、「自分という幻想」だと。株を買い占めるIT社長も、己の領地を広げることで自己の存在意義を拡張したような幻想に浸っている、と、うさちゃんは語る。うさちゃんが根源的に欲しがっていたのは、「価値ある私」だったのだと。(結論に至ったプロセスはとりあえず省略する。)
ちょっと話は変わって、今度は、本日(12日)の朝刊・文化欄より。
見出しは「ああ、セレブ…」。年収一千万円以上、有名大卒、医師などの職業に就いている、などの制限をくぐり抜けた男性と出会える「お見合いパーティ」に関する記事。噂には聞いていたけど、「上流」を目指す女性たちは本当に多くいるのだなあ、と再確認した。
よくわからん(いや、まあ、ちょびっとはわかるけど)のは、「上流」を目指す彼女らの最終目標は一体何だろう、ということ。えーと、そういうハイソサエティな男性と結婚すると、綺麗な洋服が買えて、おいしい物が食べられて、旅行にも行けて…ってことになるのだと思うけど(ここまで列挙して、おお、いいなあ!と思ってしまったぞ笑)、そういう生活をゲットしてもなお消えない欲望の終着点は何だろう。それとも、ハイソな男性と結婚することそれ自体が終着点なのだろうか。
またまた話は変わる。昨日(水曜日)の「トリビアの泉」より。
どら猫にお魚をくわえさせる実験をしていた。空き地に放置された魚(野良猫にとっては高級魚!)は、まさに「まな板の上のマグロ」だ。軽量の鰺などはいとも簡単に持ち去られるも、キロ単位のカツオやマグロは猫にとって強敵だ。が、貪欲などら猫は、自分の体よりも大きいそれの尻尾をくわえ込み、巨体を振り回すかのごとく体勢を変え、悠然と去っていった。
私が朝日新聞の二つの記事を読んで覚えた「違和感」の出所がわかった。
猫ちゃんたちは、目の前の魚(欲望の対象)に夢中で、その欲望の終着点がどんなものかなんて、おそらく知ったこっちゃない。そして魚を獲た後も、かなり長い間幸福感に浸り続けるだろう。猫ちゃんの人生(猫生)において、高級魚をゲットできる回数なんてたかが知れているからだ。そう、問題は、「頻度」なんだ。
中村うさぎのように、欲望の終着点を考えてしまうほどの生活(つまり、消費の多い生活)を送っていると、欲望自体を考察することになってしまう。物欲というものは、大晦日に除夜の鐘を叩いてぶっ飛ばさなきゃいけない煩悩だから、できるだけ目を背けていた方が幸福なのだろう。ガチンコで戦っちゃいけない。
どうしてかはわからないけど、私は、たとえ下品と揶揄されても、生きていくために貪欲であり続けるどら猫が滅多に手に入らない魚にかぶりつく様は、なんだか美しいと思ってしまうんだ。
上品であることを追求すること、つまり上流であろうとすること、それらを包括したものが「セレブになりたい」という要求だと思うけど(余談だが、私の定義する「上流」は金を持っているとはまた違う意味合いだ。ま、その話はまた今度。)、私はたまーにしか得られない幸福に「ひゃっほう!」と喜んでいる瞬間が好き。
「ひゃっほう!」と喜べるということは、表裏一体で、ときに不幸な状態を持つということ。セレブを横目に指をくわえながら、なぜ自分はそれらが手に入らないのだろうと悲しむ瞬間があるということ。そうした不幸な状態をどうにか乗り越えられるだけの体力は必要だ。
ただ、神様が設定した「幸不幸のバランス」の黄金律があるなら、私は不幸(とは思ってないんだけどね、実際)を味わう代わりに、この世にはとても大きな幸せがあることを、かなり幼い頃に知ったような。そして、その黄金律を保っていくことがこれからもできるなら、私は現時点で味わっているとんでもない幸福が一生続いていくような気さえするし、それなら生きていくのも悪くないと思う。
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備忘。
●魚の三枚おろし。
初めて魚(鰺)をおろしてしまった。
立て塩にくぐらせ、包丁も濡らす。まずゼイゴ(尻尾に近いギザギザしたやつ)を取り除く。胸ビレを立てて頭をやや斜めに落とし、腹を裂いて内臓を取り出す。このときに血合いをこそぎ落としておかないと、臭みが残る。もう一度立て塩の中で洗い、水気をしっかりと拭く。三枚にするのは、それから。塩を振っておくのを忘れずに。
本日は、皮からはがした身を包丁で粘りが出るまで叩き、つみれを作ってみた。だしとごぼうと赤みその「つみれ汁」。
ただ、疲れていかんな、これは。(疲れないってのは、定番メニューになる上での重要なポイントだ。)
●おかあさんの肉じゃが。
定期的に通っている料理教室では、以前に「豚のショウガ焼き」も教わった。本日、肉じゃがを作ることにより判明したが、レシピが薄味傾向だ。
思うに、薄味でお上品な料理というのは、(好みもあるけど)あまり労働者向きではないな。私の場合、「ゴハンがすすむー!おかわりー!」というタイプの味付けが好きとわかったので、自宅で料理をするときはその方向でいこうと思う。
もしや、私が大食いになったのは、濃い味付けを好む母のせい?
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