滋養
2006年1月19日立ち位置について考える。
私の周りの大人は色々なことを考えているようだ。センセーショナルな事件が起こるたびに、彼らは自らの立ち位置を明らかにする。声量に違いはあれど、とにもかくにも「自分はここだ」とポジショニングする彼らの背中に、私は羨望の視線を送るのみだ。彼らが立ち位置を決めたのはいつなのだろう。
昔、ホリエモンをリスペクトする人とよくお酒を飲んでいた。酔うと饒舌になる人だった。普段は口数が少ない人だったから、自分から色々話してくれると嬉しかった。その人は、ホリエモンを「現代の織田信長だ!」と語り、とても評価していた。今よりさらに無知だった私は、「そうか、堀江さんは現代の織田信長なのか。」と素直に納得した。
個人的には。
堀江貴文という人を、ブラウン管を通して初めて見たとき、イイとも悪いとも思わなかった。イイのか悪いのかを判断するために必要な根拠となる知識、その絶対量が不足していた。それでも周りに彼をイイという人がいたから、ヒナ鳥が刷り込まれるように、私は"そちら側"に立つことになった。
もうひとつ。私は、当時、そのある人の影響である雑誌を買っていた。「かしこいOLの財テク紹介!」だかなんだか忘れたが、株を買って"かしこく"生きるOLたちのハウツーをまとめた特集が定期的に組まれていた。さすがに実践することはなかったし、いざOLになったとして自分が株を買う姿が想像できなかった。でもその雑誌に載るようなOLさんになりたいと(結構、本気で)思っていた私なので、あのまま生きていたら刷り込まれていたのかもしれない。
ホリエモンがイイのか悪いのか、株を買うことがイイのか悪いのか。私はそれら行為の客観的な是非を問いたいわけじゃない。なぜなら、その是非は個人が決めることだから。「株を買うヤツの気が知れない」と語る大人が私の周りには多いけど、そう思わない人がいることを経験として知っているし、説得しようとしてもなかなか難しそうだ。神様が下す審判のような揺るぎない是非にしがみつきたいと思うけど、それは不可能なわけで。
うさんくさいものをピピピと関知するセンサーのようなもの、それは私にもある。ただ、私は、やはりどう思い返しても「自ら考えること」を放棄していたようで。必要十分な知識があって初めて立ち位置を決めるのではない。たとえ脆弱な知識に基づくとしても、対象をまず見ること、よーく見ること、その姿勢の上に知識は積み重なっていくのだろう。
そして、イイか悪いのか判断をつけにくい対象を与えられたとき、考えるより先に「自分の好きな人たち」の意見を聞いてしまうと、私は確実にそれに影響されてしまう。なぜなら、好きだから。これはもはや「性質」なので直らない(←諦めた)。でも、たとえ後から如実に影響を受けるとしても、話を聞く前に自分でも考えようと思う。考えることさえせずにいつでもフラットに生きていた私を思い出すと、なんだか素直で無邪気で可愛らしい気もするけど、「無垢」と「馬鹿」を混同してはいけない。
とか言いつつ、今の私は、白布がいつでも準備OKとばかりに染まる体勢だ。
ただね。どれだけ自分で考えようとしても他者(近くにいる人、好きな人、諸々。)の影響を受けてしまうのなら、普段からたくさんのインプットをしている人のそばにいたいとは思う。多くのインプットをしていないのに妙に声の大きい人は、なぜか説得力のあることを言ったりもするから困る。そういう人に惑わされないように。人より高い場所にアンテナを張り、人より多くの本を読もうとして、「よく生きる」ことを目標としている人、そういう素敵なインプットをする人を探してそばにいることが、客観的な是非を問うよりも、今の私にはよっぽど必要なことなのだと思う。
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備忘。
●断髪@美容院。
金穴につき、髪染めは遠慮する。「あどけない感じで!」とオーダーしたら、見事にあどけない感じになった。満足。
私の周りの大人は色々なことを考えているようだ。センセーショナルな事件が起こるたびに、彼らは自らの立ち位置を明らかにする。声量に違いはあれど、とにもかくにも「自分はここだ」とポジショニングする彼らの背中に、私は羨望の視線を送るのみだ。彼らが立ち位置を決めたのはいつなのだろう。
昔、ホリエモンをリスペクトする人とよくお酒を飲んでいた。酔うと饒舌になる人だった。普段は口数が少ない人だったから、自分から色々話してくれると嬉しかった。その人は、ホリエモンを「現代の織田信長だ!」と語り、とても評価していた。今よりさらに無知だった私は、「そうか、堀江さんは現代の織田信長なのか。」と素直に納得した。
個人的には。
堀江貴文という人を、ブラウン管を通して初めて見たとき、イイとも悪いとも思わなかった。イイのか悪いのかを判断するために必要な根拠となる知識、その絶対量が不足していた。それでも周りに彼をイイという人がいたから、ヒナ鳥が刷り込まれるように、私は"そちら側"に立つことになった。
もうひとつ。私は、当時、そのある人の影響である雑誌を買っていた。「かしこいOLの財テク紹介!」だかなんだか忘れたが、株を買って"かしこく"生きるOLたちのハウツーをまとめた特集が定期的に組まれていた。さすがに実践することはなかったし、いざOLになったとして自分が株を買う姿が想像できなかった。でもその雑誌に載るようなOLさんになりたいと(結構、本気で)思っていた私なので、あのまま生きていたら刷り込まれていたのかもしれない。
ホリエモンがイイのか悪いのか、株を買うことがイイのか悪いのか。私はそれら行為の客観的な是非を問いたいわけじゃない。なぜなら、その是非は個人が決めることだから。「株を買うヤツの気が知れない」と語る大人が私の周りには多いけど、そう思わない人がいることを経験として知っているし、説得しようとしてもなかなか難しそうだ。神様が下す審判のような揺るぎない是非にしがみつきたいと思うけど、それは不可能なわけで。
うさんくさいものをピピピと関知するセンサーのようなもの、それは私にもある。ただ、私は、やはりどう思い返しても「自ら考えること」を放棄していたようで。必要十分な知識があって初めて立ち位置を決めるのではない。たとえ脆弱な知識に基づくとしても、対象をまず見ること、よーく見ること、その姿勢の上に知識は積み重なっていくのだろう。
そして、イイか悪いのか判断をつけにくい対象を与えられたとき、考えるより先に「自分の好きな人たち」の意見を聞いてしまうと、私は確実にそれに影響されてしまう。なぜなら、好きだから。これはもはや「性質」なので直らない(←諦めた)。でも、たとえ後から如実に影響を受けるとしても、話を聞く前に自分でも考えようと思う。考えることさえせずにいつでもフラットに生きていた私を思い出すと、なんだか素直で無邪気で可愛らしい気もするけど、「無垢」と「馬鹿」を混同してはいけない。
とか言いつつ、今の私は、白布がいつでも準備OKとばかりに染まる体勢だ。
ただね。どれだけ自分で考えようとしても他者(近くにいる人、好きな人、諸々。)の影響を受けてしまうのなら、普段からたくさんのインプットをしている人のそばにいたいとは思う。多くのインプットをしていないのに妙に声の大きい人は、なぜか説得力のあることを言ったりもするから困る。そういう人に惑わされないように。人より高い場所にアンテナを張り、人より多くの本を読もうとして、「よく生きる」ことを目標としている人、そういう素敵なインプットをする人を探してそばにいることが、客観的な是非を問うよりも、今の私にはよっぽど必要なことなのだと思う。
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備忘。
●断髪@美容院。
金穴につき、髪染めは遠慮する。「あどけない感じで!」とオーダーしたら、見事にあどけない感じになった。満足。
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