栄光ドロップス
2006年1月22日一泊二日の映画研修、二日目。
宵っ張り二人組にしては珍しく、午前中に起床。いつかあたたかい朝ゴハンを作ってあげなくちゃなあと思ってはいたが、マイ・ラヴァーの部屋に基本的な調味料が無いことと、部屋が散らかっていること(作っても食べるスペースが無い)を理由に、避けていた。が、環境のせいにしていては真の料理人と呼べない。
というわけで、少ない調味料と鍋ひとつで出来るメニューをチョイスして、こしらえる。あたたかさだけは申し分ない。二人分を作るにしても、なるべく材料を残さないようにすることが今後の課題だ。なぜなら、せっかくの長ネギをストックしておいても、家主の彼がそれを刻む可能性は、キング・コングが実在する可能性より遙かに低いからだ。
ゴハンの後は、洗濯。
二週間分の洗濯物と格闘するマイ・ラヴァーを、後ろからケータイで撮影(←手伝え)。何がウケるって、何しろ二週間分なので靴下の量が半端ない。しかもその靴下の98%が黒なので、どれとどれがペアなのかさっぱりわからない。「洗濯物を干すことは神経衰弱に似ているよね。とりあえずめくってみて、あれ、これは前にもめくったな。あれー、さっきのはどれだっけ、って感じで地道にやっていくうちに…お、だんだん減ってきたぞ、ってなってきて、終盤になるとペアが簡単に見つかるようになるんだ!」と、たかが洗濯なのにいちいち理屈をこねる彼。
本日も映画を観るために、着替えていざ出陣。
昨日の反省を生かして早めに到着したにもかかわらず、『ALWAYS三丁目の夕日』は、なんと、本日も立ち見。さくらももこの漫画ばりに顔にタテ線が入る私たち。普通ならここで諦めるところなのだが、私の彼氏はこういうときに意外と意地になるタイプ。以前も「今日はリーズナブルでいいから焼き肉をがっつり食べたい!」と言うので牛角へタクシーを飛ばしたのに満席で、それなら諦めればいいところを、「いや、今日はどうしても牛角なんだ。こうなったら意地だ。」とさっき降りたのにまたタクシーを捕まえて隣駅の牛角へ向かったことがある。短時間であんなにタクシーに乗ったのは、あのときが初めてだ。
本日はタクシーに乗らなかったので、ホッ。別の映画館で無事に席をゲット。
肝心の内容である。7、8回ほどつい泣いてしまいそうになるも、隣の彼が微動だにしないので、我慢する。が、後半はさすがに我慢できず、バッグからティッシュを探してしまう。しかし、後から聞いたところによると、連れも7、8回ほど「うっ、やばい!」と思っていたらしく、私がティッシュを取り出したシーンでは同じように相当やばくなっていたそうな。笑われなくてよかった。
観たらすぐに帰ろうと思っていたのに、二人してまんまとノスタルジックになってしまい、「飲みたい気分ですよね。」と意気投合。ここでまんまと新宿・思い出横町(旧・ション●ン横町?)に向かうところが、なんちゅうかかんちゅうか、ベタな私たち。
扉が無いので吹きっさらしの店内だが、マイ・ラヴァーが風よけとして出口寄りに座ってくれたので、快適に過ごす。3K【キツイ(狭くて)、汚い、危険(階段が)】のカウンター席で、串焼きetcをいただく。寒いところで飲むHOTウーロンハイって、なんてシアワセな飲み物なんだろう。寒いところで食べる煮込みも、なんてシアワセな食べ物なんだろう。彼が冬を好む理由が少しわかった。
かの映画を観て、思ったこと。昭和30年代のあの古き良き時代が、既に過去のものだとして。「時代性」を共有したいと思う人々は、何も昭和に限らずいるのではないか、と私は思う。たとえば私の青春と呼ばれる時代は90年代後半から2000年前半にかけてだが、あと30年経ってから「あの頃はよかったなあ…」と、「今」を思い出すことは無いのだろうか、という話。たぶん、あると思う。
ただ、その感覚はやはり父世代(昭和30年頃に誕生)と違うのだろう、とマイ・ラヴァー。なぜなら、あの時代は、戦争というヒドイ「過去」を持つから、高度経済成長期に向けてどんどんと世の中が良くなる可能性と期待に満ちていたのだと。そう考えると、昭和の古き良き時代を「過去」として持つ私たちは、今より昔がイイという栄光にすがりつくような現代を生きるのみだ。
でも私は思う。仮に「時代」をひとつの生命体と認識するなら、それは常に変化を伴う。そして、たまたま今が良くない時代なのだとすれば、単にそういう時期なのだ、と。美しい桜が、散って丸裸になるように。だからといって満開だった当時を思い出すだけでは、前に進めない。諦念度が高く、未来に希望を持てないといった発言を、たまにではあるがする私。そんな私をたしなめる人にかつて教わったことは、どんな時代であれ、イイことも悪いことも柔軟に受け止めて養分にしていくしかない、ということ。だって、どうしたって、私たちは「今」を生きるしかないから。そして、そう思って生きる人を眺めながら、自分で考えたことがある。この世のすべては、60億年以上もの歴史を持つ生命体だ。恋愛だって生命体だ。だから、変化を恐れてはいけない。今より素敵な関係性があると信じることは難しいけど、過去の栄光にすがりつくだけではなしえない何かがあって、さらに言うなら度が過ぎる取り越し苦労をする必要も無くて、重要なのは、「今」を過去や未来と比べて一人で(←ここポイント)悲観してはいけないということ。そう、変化を恐れてはいけない。時代を生きる人は、変化を恐れずに力強く前進するのみ。恋をする私もだ。
そうはいっても早く大人になりたいと願う強い理由もなくはなくて、「今」を脱出したいと思っているのはほかの誰でもなくこの私なのだろう、という気はする。
宵っ張り二人組にしては珍しく、午前中に起床。いつかあたたかい朝ゴハンを作ってあげなくちゃなあと思ってはいたが、マイ・ラヴァーの部屋に基本的な調味料が無いことと、部屋が散らかっていること(作っても食べるスペースが無い)を理由に、避けていた。が、環境のせいにしていては真の料理人と呼べない。
というわけで、少ない調味料と鍋ひとつで出来るメニューをチョイスして、こしらえる。あたたかさだけは申し分ない。二人分を作るにしても、なるべく材料を残さないようにすることが今後の課題だ。なぜなら、せっかくの長ネギをストックしておいても、家主の彼がそれを刻む可能性は、キング・コングが実在する可能性より遙かに低いからだ。
ゴハンの後は、洗濯。
二週間分の洗濯物と格闘するマイ・ラヴァーを、後ろからケータイで撮影(←手伝え)。何がウケるって、何しろ二週間分なので靴下の量が半端ない。しかもその靴下の98%が黒なので、どれとどれがペアなのかさっぱりわからない。「洗濯物を干すことは神経衰弱に似ているよね。とりあえずめくってみて、あれ、これは前にもめくったな。あれー、さっきのはどれだっけ、って感じで地道にやっていくうちに…お、だんだん減ってきたぞ、ってなってきて、終盤になるとペアが簡単に見つかるようになるんだ!」と、たかが洗濯なのにいちいち理屈をこねる彼。
本日も映画を観るために、着替えていざ出陣。
昨日の反省を生かして早めに到着したにもかかわらず、『ALWAYS三丁目の夕日』は、なんと、本日も立ち見。さくらももこの漫画ばりに顔にタテ線が入る私たち。普通ならここで諦めるところなのだが、私の彼氏はこういうときに意外と意地になるタイプ。以前も「今日はリーズナブルでいいから焼き肉をがっつり食べたい!」と言うので牛角へタクシーを飛ばしたのに満席で、それなら諦めればいいところを、「いや、今日はどうしても牛角なんだ。こうなったら意地だ。」とさっき降りたのにまたタクシーを捕まえて隣駅の牛角へ向かったことがある。短時間であんなにタクシーに乗ったのは、あのときが初めてだ。
本日はタクシーに乗らなかったので、ホッ。別の映画館で無事に席をゲット。
肝心の内容である。7、8回ほどつい泣いてしまいそうになるも、隣の彼が微動だにしないので、我慢する。が、後半はさすがに我慢できず、バッグからティッシュを探してしまう。しかし、後から聞いたところによると、連れも7、8回ほど「うっ、やばい!」と思っていたらしく、私がティッシュを取り出したシーンでは同じように相当やばくなっていたそうな。笑われなくてよかった。
観たらすぐに帰ろうと思っていたのに、二人してまんまとノスタルジックになってしまい、「飲みたい気分ですよね。」と意気投合。ここでまんまと新宿・思い出横町(旧・ション●ン横町?)に向かうところが、なんちゅうかかんちゅうか、ベタな私たち。
扉が無いので吹きっさらしの店内だが、マイ・ラヴァーが風よけとして出口寄りに座ってくれたので、快適に過ごす。3K【キツイ(狭くて)、汚い、危険(階段が)】のカウンター席で、串焼きetcをいただく。寒いところで飲むHOTウーロンハイって、なんてシアワセな飲み物なんだろう。寒いところで食べる煮込みも、なんてシアワセな食べ物なんだろう。彼が冬を好む理由が少しわかった。
かの映画を観て、思ったこと。昭和30年代のあの古き良き時代が、既に過去のものだとして。「時代性」を共有したいと思う人々は、何も昭和に限らずいるのではないか、と私は思う。たとえば私の青春と呼ばれる時代は90年代後半から2000年前半にかけてだが、あと30年経ってから「あの頃はよかったなあ…」と、「今」を思い出すことは無いのだろうか、という話。たぶん、あると思う。
ただ、その感覚はやはり父世代(昭和30年頃に誕生)と違うのだろう、とマイ・ラヴァー。なぜなら、あの時代は、戦争というヒドイ「過去」を持つから、高度経済成長期に向けてどんどんと世の中が良くなる可能性と期待に満ちていたのだと。そう考えると、昭和の古き良き時代を「過去」として持つ私たちは、今より昔がイイという栄光にすがりつくような現代を生きるのみだ。
でも私は思う。仮に「時代」をひとつの生命体と認識するなら、それは常に変化を伴う。そして、たまたま今が良くない時代なのだとすれば、単にそういう時期なのだ、と。美しい桜が、散って丸裸になるように。だからといって満開だった当時を思い出すだけでは、前に進めない。諦念度が高く、未来に希望を持てないといった発言を、たまにではあるがする私。そんな私をたしなめる人にかつて教わったことは、どんな時代であれ、イイことも悪いことも柔軟に受け止めて養分にしていくしかない、ということ。だって、どうしたって、私たちは「今」を生きるしかないから。そして、そう思って生きる人を眺めながら、自分で考えたことがある。この世のすべては、60億年以上もの歴史を持つ生命体だ。恋愛だって生命体だ。だから、変化を恐れてはいけない。今より素敵な関係性があると信じることは難しいけど、過去の栄光にすがりつくだけではなしえない何かがあって、さらに言うなら度が過ぎる取り越し苦労をする必要も無くて、重要なのは、「今」を過去や未来と比べて一人で(←ここポイント)悲観してはいけないということ。そう、変化を恐れてはいけない。時代を生きる人は、変化を恐れずに力強く前進するのみ。恋をする私もだ。
そうはいっても早く大人になりたいと願う強い理由もなくはなくて、「今」を脱出したいと思っているのはほかの誰でもなくこの私なのだろう、という気はする。
コメント