旅はようやく折り返し地点を回ったあたりだが、限界が近付いている。

寒い。恋人に会いたい。PCをいじりたい。J−POPが聴きたい。湯船に浸かりたい。そして、何より、ひもじい。味噌汁が飲みたい。白米が食べたい。焼き魚が食べたい。緑茶が飲みたい。嗚呼、すべてに対してスィル・ヴ・プレ(←フランス語で「ください」という意味)。ほんとにあいしてる?ってな具合だ。

ウジウジする私を乗せて、本日、ミラノを発ってミュンヘンを経由→フランスはパリへ飛行機は飛ぶ。キーン。ひーん。

早朝(なんと現地時刻三時起き)に出発するも、移動にほぼ半日以上を費やし、お疲れの一行は早々にチェックインしたパリ市内のホテルでまったり。

久々に日中に時間が取れることとなったので、日本はちょうど真夜中、という(我が恋人にとっては)ナイスな時間にラヴコール・フロム・おフランス。が、今回のホテルに限り、部屋から国際電話をかけるためには保証金(何の保証やねん)として35ユーロ出せや姉ちゃん、とのことで、愛と親孝行のために35ユーロ手渡す羽目になる。ま、保証ということは後で返ってくるということだけど、所持金が少なくなりつつある現段階を踏まえると、旅の終わりまで35ユーロ失われたままというのは結構イタイ。

案の定起きていたマイ・ラヴァーに35ユーロプラス通話料をかけて確認したところ、例の運送会社がようやくブツを届けてくれたようで、一安心。よかった。これで今日以降ぐっすり眠れるというものだ。(そうでなくとも夜はぐっすり眠ってたけど。)

少し回復した私を連れて、暇つぶしにと、ホテルの目の前で開かれていた「蚤の市」へ。予想はしていたが、ハッキリ言って洗ってもまったく使う気になれない食器類や、匂いが数メートル先にまで漂ってきそうな古靴など、ガラクタが目立つ。が、中には面白いものもあり、「ニーハオ」と言われたり「コニチワー」と言われたり、それに対して適当に「やあやあ」と完全な日本語で対応しながら練り歩くのは、なかなか楽しい。おばあちゃんへの土産にと、スカーフを2ユーロ(約300円)で購入。2ユーロでスカーフが買えるなんてトレビアンだ。

蚤の市を覗いた後は、ホテル裏手にどどーんと建っていたスーパーマーケットの本場、『カルフール』へ。何よりもまず食料を確保すべし、と、大量の飲料水と、肉と、フルーツと、総菜コーナーでパエリアと、寿司と、ポテトと、サラダをゲット。これだけ買って4人で25ユーロなんて、ビックリするほどお得である。たらふく食べて、満足。メルスィ。

あまり特記することがない本日、いよいよ寝る頃になって、我がグループは少々深刻な雲行きに。同室のミキティの口から、旅で判明した他人のパーソナリティに対する愚痴の類を、ウンウン、そうね、そうね、と聞く。それ自体は私も大いに納得できる内容ということもあり、とりあえずは否定せずに事なきを得た。

話はさらにシリアスな領域に突入し、しばらく一人の時間が持てなかったゆえ忘れかけていた例の感覚を、久々に思い出すこととなった。ミキティが眠った後、ホテルの窓から今にも消えそうな光をたたえた彼方のエッフェル塔を眺めつつ、一人、心の奥に目を凝らしてみる。私がホームシックになっている理由は様々あるが、ずっと一人っ子として生きてきた女には、他人にはあまり顕わにできない内容を誰にも言い訳せずにうねうねと考える時間が、やはり、どうしても必要なのだと思う。それができない今は、少しだけ辛い。

最近、同い年の友達と話していると、以前より苦しいと思うことが多い。もちろん、共感できる部分は同い年だからこそあるのだが、何が苦しいかって、彼女らとは悩んでいる部分にさえも同時に共感してしまうから。同じ立ち位置で、同じ目標を見据えて、同じようにもがいている。だからこそ、私が目指している目標に達していない彼女らの話を聞いていると、達していない自分を隠して欲しい、と思う。愚痴を言うのが必ずしも悪いというわけではなく、少なくとも愚痴を先に(←ここ、ポイント)口にするとき、愚痴を言ったという事実はどうしたって変わらない。そして、愚痴は内容がどれだけ共感できるものであれ、やはり美しいものではない。必ずしも、醜い、とは言いきれなくとも。が、ミキティもおそらく愚痴を言う自分は醜いとわかった上で私に打ち明けたいと思ったわけだから、今は聞いてあげるのが精一杯の優しさだとは思う。それにしても、ミキティの中にある「嫌な自分」をあまりにもあけすけに露呈されると、私は、つい、「水のように、清らかで、しなやかに、"凛"とした美しさを保って」という、理想の女性像を思い描いてしまうの。

水のように清らかになるなんて、一生できっこない。そう思っていた。性悪説、とまでは言わなくても、私は聖人になどなれっこない、と。たぶん、それは、大まかな意味で正しい。でも、今は遠い国にいるある人にいつの間にか教えられたのは、たとえ厳密な意味では聖人になれなくても、人が元々「嫌な自分」を内部に常に持ち続けるべき存在なら、大切な人の前でこそそれがまるで無いかのごとく、あくまでも見た目には清らかな状態であり続ける努力をすべきだろう、ということ。

私はこうしてもがき続けている。ミキティも、まゆげも、Qooも、私の買いかぶりじゃなければ、同じようにもがいているはず。愚痴を言うことは、これから先もあるだろう。私に対しても言えることだ。それでも、白鳥が水面下で足をばたつかせる様を決して見せないように、いつか「水のように、清らかで、しなやかに、"凛"とした女性」になりたいと思う。

そんな風に思って眠りについた、パリ一日目の夜。

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