too late
2006年3月7日バイト先にて主婦と激論(は、してないけど)。
我がバイト先は主婦と10代の二極化がめっきり進んでおり、どちらでもない中間管理職のような私は板挟みのトホホ状態。若くして結婚したというGさんと、最近流行中(?)の「スローライフ」について、カップヌードル(BIG・カレー味)を食べながら。
そのGさん。まだ子どもはいないらしいけど、いつか身籠もったときのことを既に考えているそうだ。「こんな東京で子どもを育てるのは可哀相だし、やがては田舎でゆっくりと過ごしたいな、って。」「ほほーん。でも旦那さんの職場は都内でしょ?」「うん。でも、仕事なんてどうにでもなるし。自営業始めたっていいしさ。」などとしゃべくりながら、大好きなカレーヌードルがなんとなく美味しく感じられなくなった。
帰宅後。
脱サラして自営業を始めた父(単身赴任中)と電話でトーク。「今、テレ朝で、鬼嫁のストレスで病気になる夫の特集をやってるから、見た方がイイよ!」「まだ仕事中だっつーの。」などと他愛ない話を。相変わらず忙しそうだ。
ところで、「スローライフ」の本来の意味はどんなもんや? と気になったので、はてなダイアリー検索。「スローライフ = ゆっくり生きようというライフスタイル。自分の人生・生活を自分でコントロールし、他人にコントロールされ急かされて本来の能力を生かせなかったり、意味のない雑用を作り忙しがって他人や自分に言い訳をして見せるばかりで本来やるべきことがおろそかになっていたりするような無駄な人生・生活にはしない、という、積極的なニュアンスで用いられる言葉。」とのこと。
私がGさんとの会話中に感じた違和感を検証。
そもそも「スローライフ」という流行語を意識しないまま「ゆっくり生きるべ。」と決めた人たちがいるなら、それは結構なことだと思うけど。Gさんが必ずしも悪いという意味ではなく(←ここは何度でも強調したい。)、私が抱いた疑問は、都会を出て郊外に引っ込むこと=スローライフ、という図式がそのまま、→幸福、というさらなる図式を描くのかな、ということ。
Gさんは郊外のある土地が好きで、旦那とよく訪れているらしい。「ああ、こんなところで子どもを育てたいな。」と思った気持ちは、おそらく本物だろう(私もいざ結婚したらそう思うのかもしれない)。そうできるならそうすればいいとは思うけど、何も今やっている都会の仕事を辞めなくても、と。誤解してほしくないのは、私は、郊外で第一次産業に携わる人に敬意を抱いているし、人間の根本に立ち返る仕事(都会ではあまり見られない)を否定したいわけではない、ということ。私が思うのは、そういう郊外での仕事も必要だし、都会での雑多(と、思われがち)な仕事だって今の時代には必要だ、ということ。
「スローライフ」を信奉している人たち(Gさんがそうだとは言い切れないけど)は、「都会=悪」みたいに語ることが多いけど。「スローライフ」が、本来の「自分の人生・生活を自分でコントロール」という意味ならば、都会でもやればいいと思う。余談だが、私は郊外に出るととても落ち着くし、ゴミゴミした地域に馴染めない嫌いはあるが、それでも都会を全否定したくないな、と思っている。わー、忙しいぞー、でもあれもこれもあって、なんだかよくわからないけど楽しいぞー!というファーストライフも悪くないような。
ぽん、と神から渡された自分の状況を、「これじゃアカン!」とムリヤリ変えるより(ま、それくらいの強い決断を迫られる場合もあるが)、とりあえずその中でできる精一杯のことを、柔軟に、臨機応変に、「ま、悪くないよ。」と笑いつつできる人が好きだなあ、と思った3月7日の日記。
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その他、備忘と雑感。
●和小物購入。
袴(卒業式用)なんて適当でいいっぺよ、と、一番安い袴にしたのに。諸々の事情から、チミ、少し気合いを入れた方がいいのでは、という進言に従うこととなる。お花のついたかんざし(¥2,980×1)購入。
着物売り場で思ったこと。洋服より着物が似合う、という人は現代では損だよな。特に、男性。
●村上春樹の『風の歌を聴け』(講談社文庫)を読む。
●化粧が上手くなればなるほど素顔とのギャップが発生する、という、このジレンマをどうにかしてくれ。
●晩酌に思う。
ビールを美味しいと思う前は、いつか苦みを感じなくなるのだろうと思っていた。美味しいと思うようになっても、やっぱり苦い。酒の味がわかる歳になるとは、つまり、一見何の取り柄もない事柄にも自分なりに意味づけできる能力を持つことじゃないかな。
んー、ほろ酔い(最近、酒量が増えたような)。
我がバイト先は主婦と10代の二極化がめっきり進んでおり、どちらでもない中間管理職のような私は板挟みのトホホ状態。若くして結婚したというGさんと、最近流行中(?)の「スローライフ」について、カップヌードル(BIG・カレー味)を食べながら。
そのGさん。まだ子どもはいないらしいけど、いつか身籠もったときのことを既に考えているそうだ。「こんな東京で子どもを育てるのは可哀相だし、やがては田舎でゆっくりと過ごしたいな、って。」「ほほーん。でも旦那さんの職場は都内でしょ?」「うん。でも、仕事なんてどうにでもなるし。自営業始めたっていいしさ。」などとしゃべくりながら、大好きなカレーヌードルがなんとなく美味しく感じられなくなった。
帰宅後。
脱サラして自営業を始めた父(単身赴任中)と電話でトーク。「今、テレ朝で、鬼嫁のストレスで病気になる夫の特集をやってるから、見た方がイイよ!」「まだ仕事中だっつーの。」などと他愛ない話を。相変わらず忙しそうだ。
ところで、「スローライフ」の本来の意味はどんなもんや? と気になったので、はてなダイアリー検索。「スローライフ = ゆっくり生きようというライフスタイル。自分の人生・生活を自分でコントロールし、他人にコントロールされ急かされて本来の能力を生かせなかったり、意味のない雑用を作り忙しがって他人や自分に言い訳をして見せるばかりで本来やるべきことがおろそかになっていたりするような無駄な人生・生活にはしない、という、積極的なニュアンスで用いられる言葉。」とのこと。
私がGさんとの会話中に感じた違和感を検証。
そもそも「スローライフ」という流行語を意識しないまま「ゆっくり生きるべ。」と決めた人たちがいるなら、それは結構なことだと思うけど。Gさんが必ずしも悪いという意味ではなく(←ここは何度でも強調したい。)、私が抱いた疑問は、都会を出て郊外に引っ込むこと=スローライフ、という図式がそのまま、→幸福、というさらなる図式を描くのかな、ということ。
Gさんは郊外のある土地が好きで、旦那とよく訪れているらしい。「ああ、こんなところで子どもを育てたいな。」と思った気持ちは、おそらく本物だろう(私もいざ結婚したらそう思うのかもしれない)。そうできるならそうすればいいとは思うけど、何も今やっている都会の仕事を辞めなくても、と。誤解してほしくないのは、私は、郊外で第一次産業に携わる人に敬意を抱いているし、人間の根本に立ち返る仕事(都会ではあまり見られない)を否定したいわけではない、ということ。私が思うのは、そういう郊外での仕事も必要だし、都会での雑多(と、思われがち)な仕事だって今の時代には必要だ、ということ。
「スローライフ」を信奉している人たち(Gさんがそうだとは言い切れないけど)は、「都会=悪」みたいに語ることが多いけど。「スローライフ」が、本来の「自分の人生・生活を自分でコントロール」という意味ならば、都会でもやればいいと思う。余談だが、私は郊外に出るととても落ち着くし、ゴミゴミした地域に馴染めない嫌いはあるが、それでも都会を全否定したくないな、と思っている。わー、忙しいぞー、でもあれもこれもあって、なんだかよくわからないけど楽しいぞー!というファーストライフも悪くないような。
ぽん、と神から渡された自分の状況を、「これじゃアカン!」とムリヤリ変えるより(ま、それくらいの強い決断を迫られる場合もあるが)、とりあえずその中でできる精一杯のことを、柔軟に、臨機応変に、「ま、悪くないよ。」と笑いつつできる人が好きだなあ、と思った3月7日の日記。
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その他、備忘と雑感。
●和小物購入。
袴(卒業式用)なんて適当でいいっぺよ、と、一番安い袴にしたのに。諸々の事情から、チミ、少し気合いを入れた方がいいのでは、という進言に従うこととなる。お花のついたかんざし(¥2,980×1)購入。
着物売り場で思ったこと。洋服より着物が似合う、という人は現代では損だよな。特に、男性。
●村上春樹の『風の歌を聴け』(講談社文庫)を読む。
●化粧が上手くなればなるほど素顔とのギャップが発生する、という、このジレンマをどうにかしてくれ。
●晩酌に思う。
ビールを美味しいと思う前は、いつか苦みを感じなくなるのだろうと思っていた。美味しいと思うようになっても、やっぱり苦い。酒の味がわかる歳になるとは、つまり、一見何の取り柄もない事柄にも自分なりに意味づけできる能力を持つことじゃないかな。
んー、ほろ酔い(最近、酒量が増えたような)。
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