3月12日の物思い
2006年3月12日やや寝坊の日曜日。
携帯のアラームをやり過ごしたり目覚まし時計を何度も止めたり、無駄な抵抗を重ねながら、半覚醒状態を維持。寝間着をトレーナーからTシャツにする季節がまた来るなあ、とぼんやり眼で考えていたけど、そうだ、私が「Tシャツで寝て。」と言ったんだった、と思い出しながら起床→身支度→ひとり出発。
「朝ゴハン何が食べたい?」「任せた。」という展開なので、近所のパン屋(←美味しい)と迷った挙げ句、いつものスーパーへ。慣れない土地のスーパーは使いにくいものだが、そろそろ配置がわかってきた。野菜売り場→肉売り場→乳製品売り場と、売り場から売り場へ一筆書きのように(一度も戻ったりせずに)移動できるのが理想。
じゃがいもを物色しながら料理研究家・ケンタロウ氏の言葉を思い出す。
野菜選びには基準がある。レタスなら重みのあるもの、トマトなら色が均一なもの、ニンジンなら茎の切り口部分の直径が小さいもの。鮮度の点では正しい見極め方だが、ケンタロウ氏は言う。とりあえず両手にふたつ持ってみろ、と。ふたつ持ってみて、なんとなくこっちかな、と思う方がある。そう、なんとなく。それでいいのだと。バラ売りのじゃがいもを両手で持って、なんとなくこっちかな、と思い、カゴに入れる。
あるところに一組の男女がいて、彼らは新鮮な材料を探してましたとさ。新鮮な方が良いとされているからだ。多少新鮮でなくとも食べられるけど、そんなことはともかく。「材料は新鮮な方がいい」なんて、最大公約数で表されるような汎用性のある真理だ。誰もがいつの間にか信じている「こっちの方がいいよね的真理」は、最大公約数となり得るだけのそれを信じる人間がいるから成り立つ。そんな真理はどこかに置いて。ただなんとなく材料を持ってみて、女は「ああ、こっちだ。」と思いたい。男も同じように持ってみて、なんとなくこっちだと思う。「あ、一緒だね。」と思いたい女は、汎用性のある真理に従って「こっちの方が新鮮よ。」と言えば解決できる何かがあっても、それを言うことで壊れてしまう空気を惜しいと思う。大勢に振る舞うときならともかく、たったふたり分の世界に必要な材料ならそれでいいじゃない。
朝(昼?)ゴハン後、帰りの電車内で村上春樹(『風の歌を聴け』)を読む。
主人公の友達・鼠は小説を書く。鼠の小説には優れた点が二つあって、セックス・シーンの無いことと、人が一人も死なないことだそうだ。放っておいても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ、と主人公は言う。
人がいなくなったと聞いては騒ぎ、セックス(もしくはそれに準じる行為)にまつわる何かがあっては騒ぎ。若者はたしかにみっともない。人との別れとセックスさえ話題性を欠くようになるのが主人公と同じ20代前半なのかな。だとするなら、主人公(21)より二年ほど多く生きる私は今後何を文章にしたいと思うのだろう。
なんてことを考えつつ、帰宅。
携帯のアラームをやり過ごしたり目覚まし時計を何度も止めたり、無駄な抵抗を重ねながら、半覚醒状態を維持。寝間着をトレーナーからTシャツにする季節がまた来るなあ、とぼんやり眼で考えていたけど、そうだ、私が「Tシャツで寝て。」と言ったんだった、と思い出しながら起床→身支度→ひとり出発。
「朝ゴハン何が食べたい?」「任せた。」という展開なので、近所のパン屋(←美味しい)と迷った挙げ句、いつものスーパーへ。慣れない土地のスーパーは使いにくいものだが、そろそろ配置がわかってきた。野菜売り場→肉売り場→乳製品売り場と、売り場から売り場へ一筆書きのように(一度も戻ったりせずに)移動できるのが理想。
じゃがいもを物色しながら料理研究家・ケンタロウ氏の言葉を思い出す。
野菜選びには基準がある。レタスなら重みのあるもの、トマトなら色が均一なもの、ニンジンなら茎の切り口部分の直径が小さいもの。鮮度の点では正しい見極め方だが、ケンタロウ氏は言う。とりあえず両手にふたつ持ってみろ、と。ふたつ持ってみて、なんとなくこっちかな、と思う方がある。そう、なんとなく。それでいいのだと。バラ売りのじゃがいもを両手で持って、なんとなくこっちかな、と思い、カゴに入れる。
あるところに一組の男女がいて、彼らは新鮮な材料を探してましたとさ。新鮮な方が良いとされているからだ。多少新鮮でなくとも食べられるけど、そんなことはともかく。「材料は新鮮な方がいい」なんて、最大公約数で表されるような汎用性のある真理だ。誰もがいつの間にか信じている「こっちの方がいいよね的真理」は、最大公約数となり得るだけのそれを信じる人間がいるから成り立つ。そんな真理はどこかに置いて。ただなんとなく材料を持ってみて、女は「ああ、こっちだ。」と思いたい。男も同じように持ってみて、なんとなくこっちだと思う。「あ、一緒だね。」と思いたい女は、汎用性のある真理に従って「こっちの方が新鮮よ。」と言えば解決できる何かがあっても、それを言うことで壊れてしまう空気を惜しいと思う。大勢に振る舞うときならともかく、たったふたり分の世界に必要な材料ならそれでいいじゃない。
朝(昼?)ゴハン後、帰りの電車内で村上春樹(『風の歌を聴け』)を読む。
主人公の友達・鼠は小説を書く。鼠の小説には優れた点が二つあって、セックス・シーンの無いことと、人が一人も死なないことだそうだ。放っておいても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ、と主人公は言う。
人がいなくなったと聞いては騒ぎ、セックス(もしくはそれに準じる行為)にまつわる何かがあっては騒ぎ。若者はたしかにみっともない。人との別れとセックスさえ話題性を欠くようになるのが主人公と同じ20代前半なのかな。だとするなら、主人公(21)より二年ほど多く生きる私は今後何を文章にしたいと思うのだろう。
なんてことを考えつつ、帰宅。
コメント