29−23

2006年3月13日
Sねーさんとゴハン@六本木。

Sねーさんは6歳年上で、婚約中。歳は離れているけど、定期的に食事をする仲だ。ねーさんのお友達がシェフを務める創作イタリアンレストランで、赤ワイン(軽めをオーダー)を飲む。「これくらいの予算で。」「野菜を多めに食べたい。」など、好みを伝えてお任せコース。

ねーさんと出会ってから丸二年、私は二回進級し、就職先を決め、恋人が変わり、そろそろ卒業する。ねーさんは時給が上がり、恋人だった人が婚約者になり、住むところが変わり、そろそろ結婚する。当時も今も話題といえば、アルバイト先の愚痴、心配をかける(共通の)友人の話、ねーさん’sレシピの話、などで変化が無い。二人で会うと食べ過ぎちゃうのも一緒。自由奔放なねーさんは気取ったお店だからといって自分は気取らず、いつも通りだ。どうしたらそうなれるんだろう、と悩んだ時期もあったけど。

菜の花とブロッコリーのガーリックソテー、ズッキーニとトマトを添えた大根ステーキ、筍と豆ときのこが入ったオレガノ風味のパスタなど、とても美味しく、ボリューム満点。

「今だから話せることだけど。」とSねーさん。

私たちとかつて一緒に働いたTは、アルバイト先を辞め、一人で暮らしている。高校のときから付き合っている彼氏に好きな人ができてフラれた。数ヶ月で彼は戻ってきて、Tは受け入れた。最初のそれはもう随分昔の話で、くっついたり、別れたり、そんなことを繰り返している。Tは「彼とは結婚しない。」と言うし「好きかどうかわからない。」とも言う。「なんで別れないの?」と聞くと、「今は理由が無いっていうか…。」と言うし「放っておいても毎週来るから会わない理由も無い。」とも言う。私よりTと親しいねーさんは、私が知ってる以上の情報を持つ。

「だから受け入れちゃダメなの。これは、絶対。」とSねーさん。

戻ってきた場合。「ああ、やっぱりその女より私の方が良いって気付いたんだ!」という思考パターンになるのは想像がつく。それが本当かどうかは彼と神のみぞ知る。本当じゃない場合というのは、単に、隣の芝生から元いた芝生を眺めたら青かった、という場合。どちらも青さは変わらないのに、という場合。芝生の本当の青さを見極められない男が戻ってきても、幸せにはなれない(と、Sねーさん)。なぜなら、またいつか捨てられるかも、という恐怖は女側にいつまでも残るから。そんな恐怖を持ってる時点で、既に「対等」じゃない。言いたいことも言えない。したいこともできない。また捨てられるのが怖いから。そして「別れ」は深刻さを失う。一度経験したことだから。

イエス・ノーをきっぱりと言うねーさんは、ときに非情に思えた。捨てられた私の気持ちを推し量ることもせず、「そんな男は帰ってきても切り捨てなさい。」と夏に言い切った。待ちたかった私は待つための理由を探して、待つと決めた自分を「慈愛に満ちた女」だと解釈し、待たないねーさんを「非情な人」だと決めつけた。あれから半年とちょっと。一見ものすごく自己中心的に思える「自分を大切にする」という行為の本当の意味が、少しだけわかった気がした。

不思議なことに。

ねーさんを非情だと決めつけた当時の論理は、今見返してもなかなか筋が通っているように思える。私が正しいと思いこんでいる2006年3月13日現在の論理でさえ、もう少ししたら信じられなくなるのかな。29歳のねーさんは今も私を諭すけど、同じように私を諭そうとする人に反発したい気持ちが少ーしだけ溶解したようなそーんな気分で、食後のコーヒーを飲んでみた。

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その他備忘と雑感。

●美容院にて。
ひっさしぶりにカラーリング。そして襟足バッサリ。テーマは「フレッシュ」。ここまで短くしたのは小学生以来だ。

●そんなに飲んじゃいけない日はフルボディのワインにすべし。軽いとぐいぐいいってしまう。

●近年稀に見る大恐慌到来中。

●食べられない野菜が無くなった。

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