3月14日の読書メモ

2006年3月14日
村上春樹の『風の歌を聴け』(講談社文庫)読了。

大学三年の頃、諸事情により小説を書いていたことがある。自我が芽生えたばかりだったので(遅い?)、「小説=私小説」とはなっから決めつけていた節がある。つまり、「主人公の思ったこと=自分が考えたこと」だった。生々しい恋愛に関するすべてのこと(当時は恋愛にしか興味が無かった…。)から感じた自分なりの主張、それをほんっとにストレートに主人公に投影したものだ。

小説を書く私には先輩がいて、彼女がそのコミュニティでは一番「デキる人」だった。彼女はなぜか私の書くものに興味を持ってくれて、個人的にメールをくれたことがある。

(以下、抜粋。↓)


「自分の経験したことを文章にしたいという気持ちは良く分かります。
私も自分の経験をもとにしか小説を書く事ができません。
ただ、本当にそのまま書いてしまうと、「自分」というフィルターしか
通していないわけですから、他者の存在しない、ただの日記になってしまいます。
先生も仰っていましたが、やはり第三者の目というのが大切であるという事と、
地の文、つまり一人称の主人公の頭の中ではなく、リアルタイムで
起きていることの描写に重きをおくべきです。そのためには
説明しなくてはいけない箇所、登場人物の心情もなるべく会話など利用して
地の文として表現するのが良いと思います。
そして一部は読者の想像に任せる隙間を作ることも重要です。」



無断で引用してしまったので、彼女がここを見ていないことを祈るのみである。何はともあれ、そういうことだ。小説とは、たぶん、そういうものだ。自分で体験したことしか書けない。

村上春樹が感じたこと・言いたいことは本人のものだ。それでもこの本が日記でなく小説というスタイルである以上、表現されているすべての思想は、村上が考えたことじゃなくて、「僕」の考えになっている。淡々と描写された本文は「僕」が当時を思い出しながら綴っている、という形式だけど、たまに村上自身の譲れない何かがものすごくストレートに出ている本文があって、私は胸が震えた。

一つだけ、引用しよう。


「かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
高校の終り頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。
理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。
そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることの
できない人間になっていることを発見した。」



これを書いた村上氏は29歳ということなので、今どう思っているかは知らない。ただ、作中では21歳の「僕」が"かつて"と語る中で、現在の私はもがいているんだなあ、ということだけははっきりした。

私と私の周りの大人が特別なんじゃなくて、誰でも通る道なのだろうか。そして、「僕」が思っていることの半分しか語ることができなくなったように、30歳になる頃には私も半分しか語れない大人になるのかな。

「理想の大人像」は、いつまでも遠くに厳然と立つものではなく、近付くにつれて刷新してさらに遠くに追いやらなければならないものなのかな。だとするなら、私もいつまでも大人になれそうな気がしない。

感想、以上。

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索