卒業私信
2006年3月25日
卒業式。
戦場のような着付け会場で袴姿に変身!ちょっと地味だったかなあ…と気にしてたけど、ヤンキー崩れ風の美容師さんに「大丈夫、アンタの顔によく合ってる。」とタメ語で励まされ、そっかーよかったー、と安心し、いそいそと学校へ。
気合いを入れてメイクしたり、髪をあっちこっちへ引っ張られたり、帯をぎゅーぎゅー締められたり、ひきつり笑顔で写真を撮られたり、などなど、朝から盛りだくさんのため腹ぺこ。盛りだくさんじゃない日も大抵腹ぺこだが、それはそれとして、ランチタイム。袴姿でずんずん入店→ナプキンを首もとに突っ込んでeating。「今日、会える?」「今どこにいる?」「どこどこにいるから来て!」など、常に鳴りっぱなしの携帯を片手に、ニコッ、パシャッ、ニコッ、パシャッ、を数百回(は大袈裟だな)繰り返すうちにあっという間に式の時間。
私の人生始まって以来の晴れ舞台。リハーサルは行わないという衝撃の知らせを受け、なんと、ぶっつけ本番(!)で大役を務めることに。マジかよーと青ざめている間に来賓は到着し、総長は帽子をかぶり、曲は流れ出す。万事滞り無い。
壇上で思ったこと。
所定の課程を修め、私は學士の學位を授かった。私が学んだことは何? たくさんある。言葉にできない。それでも、実際より随分長く感じられた授与の瞬間、色々なことを思い出した。大学生になって初めて覚えた感情が多すぎて、「ああ、世の中にはこんなに素晴らしいことがあったのか。」と思うのと同時に「ああ、世の中にはこんなにやりきれないことがあったのか。」と、いちいち感動するので精一杯だった。小説や映画や漫画などから聞きかじった知識だけで構成されていた私が、自分の身を使って、ひとつずつ、「感情」を学んだ。誰もがひっそりと共有する類のありふれた(と、敢えて書く)感情でも、発見できたことがただ嬉しくて、笑ったり、泣いたり、騒いだりした。「発見する」ことこそ大学で為すべきことで、私はそれらをすっかり修めきったつもりだった。「俺がおまえの大学生活そのものだよね?」と問われて、バカ、そんなはずがない、まだ発見してないことがあったんだ、そして今は「発見」を繰り返すという渦中にいるけど、いずれ「発見した感情」を客観視できる状態に持っていくことが私の目標で、その冷静な状態への道筋らしきものを発見したこと、その過程こそが私の大学生活だ、と。
私は、今日、ある人にどうしてもお礼が言いたい。(以下、私信↓)
あなたが私のことをどう思っているかは想像しかねますが、
あなたの定義する「素敵な人」の因子を私の中にも見出してくださるなら
それは、仮にあったとしても、私が一人で作り出したものではありません。
父や母に授かったのはもちろんですが、
その因子は誰かに見つけてもらえなければどうしようもなく。
因子があるのに見つけてもらえない人が潜在的に多くいる中、
あなたが「因子らしきもの」を認めてくださったおかげで、
「因子らしきもの」が「因子」になる準備ができました。
どうやって「因子らしきもの」を「因子」にするかですが、
それはもうちょっと考えていきたいと思ってます。
見つけてくれてありがとう。
大学生活で得た何よりの財産です。
(私信、終わり。)
風よ 主を歌え 雲よ 主をほめよ
ハレルヤ ハレルヤ
朝日よ さぁ歌え 夕月よ さぁほめよ 主である神を
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
主を賛美するとは、すなわち、神が創った(といわれる)人間を賛美することだろう、と、クリスチャンじゃない私は勝手に思っている。だから、この歌は人間を賛美する歌であり、巣立つ私たちへの祝福の歌だ。
我が大学生活にいっっっっっっっっっっぺんの悔い無し! ハレルヤ!
戦場のような着付け会場で袴姿に変身!ちょっと地味だったかなあ…と気にしてたけど、ヤンキー崩れ風の美容師さんに「大丈夫、アンタの顔によく合ってる。」とタメ語で励まされ、そっかーよかったー、と安心し、いそいそと学校へ。
気合いを入れてメイクしたり、髪をあっちこっちへ引っ張られたり、帯をぎゅーぎゅー締められたり、ひきつり笑顔で写真を撮られたり、などなど、朝から盛りだくさんのため腹ぺこ。盛りだくさんじゃない日も大抵腹ぺこだが、それはそれとして、ランチタイム。袴姿でずんずん入店→ナプキンを首もとに突っ込んでeating。「今日、会える?」「今どこにいる?」「どこどこにいるから来て!」など、常に鳴りっぱなしの携帯を片手に、ニコッ、パシャッ、ニコッ、パシャッ、を数百回(は大袈裟だな)繰り返すうちにあっという間に式の時間。
私の人生始まって以来の晴れ舞台。リハーサルは行わないという衝撃の知らせを受け、なんと、ぶっつけ本番(!)で大役を務めることに。マジかよーと青ざめている間に来賓は到着し、総長は帽子をかぶり、曲は流れ出す。万事滞り無い。
壇上で思ったこと。
所定の課程を修め、私は學士の學位を授かった。私が学んだことは何? たくさんある。言葉にできない。それでも、実際より随分長く感じられた授与の瞬間、色々なことを思い出した。大学生になって初めて覚えた感情が多すぎて、「ああ、世の中にはこんなに素晴らしいことがあったのか。」と思うのと同時に「ああ、世の中にはこんなにやりきれないことがあったのか。」と、いちいち感動するので精一杯だった。小説や映画や漫画などから聞きかじった知識だけで構成されていた私が、自分の身を使って、ひとつずつ、「感情」を学んだ。誰もがひっそりと共有する類のありふれた(と、敢えて書く)感情でも、発見できたことがただ嬉しくて、笑ったり、泣いたり、騒いだりした。「発見する」ことこそ大学で為すべきことで、私はそれらをすっかり修めきったつもりだった。「俺がおまえの大学生活そのものだよね?」と問われて、バカ、そんなはずがない、まだ発見してないことがあったんだ、そして今は「発見」を繰り返すという渦中にいるけど、いずれ「発見した感情」を客観視できる状態に持っていくことが私の目標で、その冷静な状態への道筋らしきものを発見したこと、その過程こそが私の大学生活だ、と。
私は、今日、ある人にどうしてもお礼が言いたい。(以下、私信↓)
あなたが私のことをどう思っているかは想像しかねますが、
あなたの定義する「素敵な人」の因子を私の中にも見出してくださるなら
それは、仮にあったとしても、私が一人で作り出したものではありません。
父や母に授かったのはもちろんですが、
その因子は誰かに見つけてもらえなければどうしようもなく。
因子があるのに見つけてもらえない人が潜在的に多くいる中、
あなたが「因子らしきもの」を認めてくださったおかげで、
「因子らしきもの」が「因子」になる準備ができました。
どうやって「因子らしきもの」を「因子」にするかですが、
それはもうちょっと考えていきたいと思ってます。
見つけてくれてありがとう。
大学生活で得た何よりの財産です。
(私信、終わり。)
風よ 主を歌え 雲よ 主をほめよ
ハレルヤ ハレルヤ
朝日よ さぁ歌え 夕月よ さぁほめよ 主である神を
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
主を賛美するとは、すなわち、神が創った(といわれる)人間を賛美することだろう、と、クリスチャンじゃない私は勝手に思っている。だから、この歌は人間を賛美する歌であり、巣立つ私たちへの祝福の歌だ。
我が大学生活にいっっっっっっっっっっぺんの悔い無し! ハレルヤ!
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