竹内薫の『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書)、読了。

以前書いたことと若干ダブるが(12月29日の日記参照。)、私はある人と「真実はあるのか?」という話をよくする。彼は「真実があるって言い切る姿勢はどうかな。」と言って眉をひそめる。

「数学と科学の決定的な違い」について、著者は語る。

科学の場合、ある種の実験をすると、ある理論が正しいということが決定的に決まるイメージがある。が、100万回実験を行って理論を支持するような実験結果が出てきたとしても、その次の100万1回目に否定的な結果、理論がうまくいかないことを示すような精密実験データが出てきたら、その時点でその理論は通用しなくなる。要するに、決定的な証明は永遠にできない、ということ。なぜなら永遠に実験をすることは不可能だから。

一方、数学の場合、証明することができる。なぜなら、数学は概念だから。すべてが頭の中の出来事だから、一度証明してしまえばそれで終わり。科学はそうじゃない。科学は、頭の中の仮説がどれくらい頭の外、つまり物理世界と一致するかを問題にする、と。

もうひとつ。

アインシュタインの相対性理論についても、著者は触れている。

たとえば、太郎君と次郎君がいて、お互いに別のロケットに乗って宇宙空間ですれ違ったとする。そのすれ違う瞬間にお互いの時計を望遠鏡で見た場合、太郎君には自分の時計に比べて次郎君の時計が遅れているように見えるが、一方、次郎君にも自分の時計に比べて太郎君の時計が遅れているように見える。そんなことはありえない、と思うなら、それは「世界には時間の流れがひとつしかないという仮説」に馴れきっている証拠。世界には複数の時間の流れがあってもいいという仮説をとるなら、全然かまわない、と。要は、全体を統一する絶対的な唯一の仮説が無いということだ。どっちが正しいかではなく、両方とも正しいというのが、相対性理論の根っこの考え方だという。

ここで、もう一度、科学と数学の話に戻る。

科学と数学のどちらが良いかを述べるつもりはないが、私が数学をあまり好きになれなかった根本(のようなもの。数学をバリバリ勉強してる頃は意識してなかったけど。)が、改めてはっきりした気がする。

というのも、「絶対的な唯一の仮説」が必ず証明される数学はロマンチックと思う人もいるようだけど、まったく同じ理屈で、私はそこ(「絶対的な唯一の仮説」が必ず証明される)に魅力を感じない。なぜなら、やはり、どこまでいっても頭の中の出来事に過ぎないから。普段からワンダーランドに飛びがちな私にとって、自分の頭の中でのみ存在しうる世界を、どれだけリアルワールドに適応させるかが幼い頃からの課題だった。

リアルワールドには色々な人がいる。そして、それぞれの頭の中に"真実"を持っている。私は、最近になって、自分のワンダーランド内で証明された"真実"を声高に叫ぶのは傲慢なのでは? ということに段々気付いてきた。12月にも思ったことだけど、必ず"真実"が出るはずだという前提の上で問題を解く数学者より、"真実"が所詮自分の頭の中でしか証明できないことに気付きながらそれでも良く生きようとする姿勢の人に、私はどうしても惹かれる。

最後にもうひとつ。

ホーキングという宇宙論学者は現実と夢を区別していなかったそうだけど、私は、実は、同じような傾向がある(←って書くと、すごく危ない人みたい…)。そして、アインシュタインの相対性理論の概要を聞く以前に、「世界には時間の流れがひとつしかないという仮説」を否定する準備ができていたような。

私が生まれたのは地球という星の西暦1982年だけど、たとえば100年後の2082年に死ぬとして、60ウン億年という地球の歴史の中の100年だけ存在したことになる。宇宙にひとつ確かな時間の流れがあるとして、一度誕生した私が次に生まれ変わるなら、地球という星の2082年以降でないと、つじつまが合わない。でも、そうじゃないような気がして。私は宇宙空間に浮遊する時間に縛られない魂で、今回は地球という星の西暦1982年に生まれたけど、次は地球という星の西暦794年の平安の都に生まれて恋の歌でも詠んでるかもしれない。

私が今世で出会ったある人も、もしかしたら西暦4080年とかに生まれたことがあって、そして、私も西暦4082年に生まれたこともあるかもしれなくて、一度出会った魂同士なのかもしれないなあって。時間を取り払った空間に生きる魂同士が出会うこと、それには強烈な意味がやはりあるような気がして。だからこそ、人は恋をするんじゃないかな。運命じゃない恋も現世にはたくさんあるけど、もしも、もしもだよ、運命の恋(←って書くと、さすがの私も恥ずかしい…)があるとして、「見た目が好き、思いやりがあるから好き、明るいから好き」などの客観的項目がぶっ飛んでもなお「なんだかよくわからんけど好きになっちまったー!!」と私たちに思わせるのは、時間に縛られない宇宙の中で本当に触れ合った記憶のせいじゃないかな、と。それこそを親子の因縁、親友の因縁、そして恋人同士の因縁と呼ぶのではないかな、と。

さてさて。固い話はこのくらいにして寝ます。

コメント

nophoto
じゅんじゅん
2006年3月29日16:57

こんにちは 書き込みするのは初めてです♪

「宇宙空間に浮遊する時間に縛られない魂」って、いいですねー。
なんだか、すっとわかる気がして共感しました。

あたしも、今出会っていて、なにかぴぴぴ、と感じてる人たちは、
やっぱりどこかのタイミングでも交わったことがあるような気がするんです。
でも別に、ものすごい強烈な運命、とか、業とか(笑)そういうのではなくて、
どちらかといえば「同じ小学校出身だよねー♪あの桜並木またみたいよねっ」ぐらいの、連帯感。
それを感じることができる人たちと出会っていくのは、嬉しいよね。

そーゆーのってまあ、妄想の類かもしんないけど(笑)、
ま、「感じたもの勝ち」っていうか、
自由に感じてるほうが、人生わくわくして楽しいなーって思います!

りん
りん
2006年3月30日1:53

>じゅんじゅんさま

初コメントありがとうございます!光栄です!
ちょっと、驚きました(笑)。

じゅんじゅんさんの最新の日記にも通じるんですが、なんとなく感じられるリズムが私にもあって(よく、何も聞こえない場所で規則的に指を動かしてみて、それが一番自分にとって心地よいリズムだ、って言うらしいですね。)、そういうのを無意識レベルで感じられるとき、時間に縛られない魂の躍動を感じます。

>「同じ小学校出身だよねー♪あの桜並木またみたいよねっ」ぐらいの、連帯感。

ああっ、なるほど、と膝を打ちました。そうそう、無意識レベルの共感ほど、自分に余裕が無いと気づけないなあ、と思いました。

常に前向きな思考をなさるねーさんらしいコメントが、すごく嬉しいです。同感です。以上、妄想大好き女(笑)より。

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